中嶋聡監督~チームマネジメントで勝ち取った25年ぶりのリーグ制覇【第158回】

中嶋聡監督~チームマネジメントで勝ち取った25年ぶりのリーグ制覇【第158回】

2021年のプロ野球はクライマックスシリーズのファーストステージが終了し、セリーグは読売ジャイアンツ、パリーグは千葉ロッテマリーンズがファイナルステージへの進出を決めました。

前回の当コラムでは、セリーグ優勝監督である東京ヤクルトスワローズの高津臣吾監督を取り上げましたが、今回はパリーグの優勝監督であるオリックス・バファローズの中嶋聡監督を取り上げさせていただきます。

今シーズンはセパ両リーグとも2年連続最下位だったチームの優勝が話題になっていますが、オリックス・バファローズの前回の優勝は1996年、前年からの連覇でした。名将仰木彬監督がチームを率い、後にメジャーリーグへ移籍したイチロー選手が中心選手であった時代です。

チームは優勝した1996年の後、1997年は2位、1998~1999年は3位でしたが、2000年以降は21シーズン中19回がBクラス(Aクラスだったのは2008年・2014年の2位が2回)、うち9回が最下位という長期に渡る低迷期の中にありました。そんなチームが一気に蘇った訳ですから、一体何があったのか大いに興味を惹かれます。

それでは中嶋監督のプロフィールよりご紹介させていただきます。中嶋聡監督は秋田県北秋田市のご出身で、1969年(昭和44年)3月生まれの52歳、現役プレーヤー時の守備位置は捕手でした。秋田県立鷹巣農林高等学校のご出身ですが、高校時代甲子園への出場経験はありませんでした。

全国的にはあまり名の知られた選手ではありませんでしたが、それでも1986年秋のドラフト会議では当時の阪急ブレーブスからドラフト3位の指名を受け、プロへの第一歩を記されました。

中嶋捕手は強肩であった上に打撃センスにも優れ、しかも俊足であったことから2年目から頭角を表わし、3年目には正捕手の立場を手にされています。経営権の譲渡によりチーム名がオリックス・ブルーウェーブに変更された1991年以降も正捕手の座は維持されていましたが、徐々に打撃が低迷し、他の捕手との併用も増えていきました。

ただそれでも1995年には11年ぶりのリーグ制覇に貢献し、翌1996年にもリーグ連覇と日本一にも貢献されました。1997年オフにフリーエージェント宣言し、メジャーリーグへの挑戦を表明されましたが、納得の出来る契約を勝ち取れず、西武ライオンズへの移籍を決断されました。

西武ライオンズでは一時的な活躍はされたものの、チーム一筋で信頼感もある伊東勤捕手から正捕手の座を奪うことは出来ませんでした。ただ1999年に入団された松坂大輔投手の専用捕手のような形で出場機会が増えていきましたが、2001年以降は松坂投手の登板時も伊東捕手がマスクをかぶる機会が増え、加えてチームの若手捕手起用の方針もあって、更に出場機会は減っていきました。

2002年は二軍での生活が長くなっていましたが、同年のオフに2対2のトレードにより横浜ベイスターズへの移籍が決まりました。2003年の開幕戦では先発マスクを勝ち取りましたが、故障や打撃不振もあって結果を残せず、同年オフには構想外となり、金銭トレードで北海道日本ハムファイターズへの移籍が決まりました。

北海道日本ハムファイターズでは元々3番手捕手としての位置づけでしたが、正捕手の度重なる故障や二番手捕手の不調もあり、移籍2年目の2005年には結果的に捕手としてチーム最多の出場機会を得ておられます。

翌年の2006年には先発出場はわずか2試合ではあったものの、抑えのエースであったマイケル中村投手との相性の良さを買われて試合後半を任される「抑え捕手」の立場を獲得し、以後マイケル中村投手が読売ジャイアンツに移籍する2008年終了までマイケル中村投手の専属捕手のような形でチームに貢献し、2006年のリーグ優勝と日本一にも貢献されています。

この後2007年からは選手と一軍バッテリーコーチを兼任することになり、選手としての一軍登録抹消時にはコーチ専任で一軍に帯同することが多くなり、若手に捕手としての出場を譲る形で出場機会も一段と減りはしたものの、バックアップのような形で毎年数試合は選手としての出場も続け、2015年のシーズンオフをもって現役を引退されました。

この時点でNPBの一軍実働登録は29年になり、これは工藤公康投手(前福岡ソフトバンクホークス監督)、山本昌投手(元中日ドラゴンズ)と並ぶ歴代1位タイの記録でした。現役引退と共にご自身の意向で一軍バッテリーコーチも退任し、プロ野球選手・コーチとしての第一線からいったん身をひかれることとなりました。

その後の2年間は日本ハム球団のチーム統括本部のゼネラルマネジャー特別補佐に就任し、日本ハムの業務提携球団であるメジャーリーグのサンディエゴ・パドレスに派遣され、コーチとしてマイナーリーグの傘下球団を巡回する一方、外国人選手のスカウティング活動にも携わっておられました。

そして2018年は北海道日本ハムファイターズの一軍バッテリー兼作戦コーチとして現場復帰をされましたが、シーズン後半に中嶋監督にとっての大きな転機がやってきました。プロ野球選手としてのスタートをきったオリックス・バファローズから「古巣に力を貸してくれないか」とのオファーが入りました。

この日本ハムからオリックスへの移籍は2018年10月19日に報じられましたが、この日は阪急ブレーブスがオリックスに経営権譲渡を発表した1988年10月19日からちょうど節目の30年目に当たる日であり、最後の阪急戦士であった中嶋監督の、阪急を引き継ぐオリックスへの復帰を手助けする為、わざわざこの日を選んだことが日本ハム球団から発表されています。

中嶋監督がオリックスから受けたオファーは、一軍バッテリーコーチあるいは2軍監督のどちらかを選ぶというものだったようですが、中嶋監督は「若手選手の育成を」と即座に後者を選択し、チームの首脳陣の一員となられました。一滴ずつ「勝利への執念」を注入し、1997年からV逸が続くチームの負け犬根性一掃に全力を注ぐことを決意されました。

中嶋監督は2軍監督をしながら一人一人の選手をじっくり観察し続けられます。「個々の選手の力は決して引けをとるものではない。試合運びさえ・・・と、ずっと思っていた」と後に語っておられます。そんな中嶋監督に再び突然の転機がやってきました。

二軍監督2年目の2020年8月20日、チーム不振の責任をとって西村徳文前監督が辞任を表明し、後任として中嶋監督が監督代行として8月21日より一軍の指揮をとることが発表されました。そしてこの8月21日の午前中、中嶋監督は大阪・舞洲(マイシマ)の球団施設の風呂場で一人の2軍選手に「一緒に一軍に行くぞ」と声を掛けました。それが今シーズンの優勝の立役者の一人となった杉本裕太郎選手でした。

シーズン途中から監督代行として67試合を戦った中嶋監督代行は、この期間を29勝35敗3分、勝率.453で終えられました。残念ながら5割には届いていませんが、それまでの勝率.327から同じ戦力で勝率は1割以上もアップしており、シーズン終了後には2021年シーズンの監督就任が正式に発表されました。

正式に監督に就任されると「育成&勝利」をテーマにオフの間からチーム改革に取り組んでいかれました。コーチングスタッフは小林宏2軍監督を除き、1軍・2軍の肩書を撤廃。そこには「コーチ全員で選手を見る」という強い意志が含まれていたようです。

併せて「コーチもアピールしたくなるけど、選手にはそれまでやってきたことがある。従ってまずは選手をしっかり見て欲しい」ということで指導禁止令まで出されています。宮崎市での春季キャンプでは1軍・2軍の振り分けをやめ、A組B組と呼称も変更。練習メニューも午前中にサインプレーなどチームで行なうプレーの確認に多くの時間を割き、あとは個人練習に充てられました。

自分で課題を考え、練習内容も考えるという、自主性を徹底的に尊重する方式です。中嶋監督のこのスタイルは2019年の2軍監督時代から既に取り入れられており、19年の2軍キャンプでは早出や居残り練習といったメニューも廃止されています。

この早出、居残りといったメニューを廃止したのは、2軍選手は1軍選手ほどの体力が備わっておらず、故障に繋がる過度な量の練習はなくす、という明確な意図があったようです。必要ならば取り入れ、ムダと思えば躊躇なくやめる、慣習にとらわれないのが中嶋流のチームマネジメントと言えそうです。

(自主性尊重の申し子のような選手が高卒2年目で13勝をあげた宮城大弥投手です。ぜひ第147回「限りない可能性を秘めた若武者!」もお読み下さい)

こうした慣習にとらわれないチームマネジメントはシーズンに入ってからも続き、今度は試合前のシートノック自体が撤廃されたようです。地方球場やビジターで間隔が空いている時は行なうようですが、選手は基本的にその時間を試合の準備に充てることになったようです。

身体を休める選手もいれば、データを整理する者、ブルペンでティー打撃をする者etc、試合までの過ごし方は選手によって様々になったようです。更に試合のない月曜日、投手コーチが見守る中、先発投手が行なっていた投球練習も廃止。試合に向けてどう過ごすかは全て選手に任されることになったようです。

実働29年にも渡って捕手としてマスクをかぶり続けた中嶋監督の経験に基づき決められたルールもありました。それが中継ぎ投手陣の「3連投厳禁指令」というものです。今シーズンコーチ兼投手として阪神タイガースからオリックス・バファローズに移籍された能見篤史コーチは、最初のコーチ会議でこの発言を聞いた時には正直驚いたと語っておられます。

試合状況によっては相当な覚悟が必要となりますが、これをシーズンの最後まで貫き通した効果は抜群でした。結局中継ぎ陣は最後までフレッシュな状態を保ち続け、同一カード3連敗が一度もないままゴールテープを切っています。

今シーズンのオリックス・バファローズは、投手陣は山本由伸投手、宮城大弥投手の二枚看板を押し立て、攻撃陣は1番福田周平選手、2番宗佑磨選手、3番吉田正尚選手、4番杉本裕太郎選手の布陣で勝ち進んでいくのが基本的なパターンでしたが、このパターンが確立されたのはシーズンも半ば頃になってからでした。

元々内野手で登録されている福田周平選手は、出番を求めて外野練習をする中でシーズン途中にセンターへコンバートされましたし、逆に外野手登録である宗佑磨選手は中嶋監督に見出されて3塁手に抜擢されています。ここでも中嶋監督の柔軟な選手起用が目につきます。

昨年までのオリックス・バファローズでは吉田正尚選手が一枚看板となっており、歩かされると次のバッターが打ち取られて点が入らないパターンを繰り返していましたが、今年はシーズン途中からホームランが打てて確実性も高まった杉本裕太郎選手が4番に定着したことで得点能力が飛躍的に高まりました。

ここで今シーズンのオリックス・バファローズの躍進の象徴でもあり、中嶋監督の選手を見出す眼の確かさと、場を与えて芽を出すのをサポートしていく我慢強さ・忍耐の象徴でもある杉本裕太郎選手(愛称 ラオウ杉本)について触れさせていただきます。

杉本裕太郎選手は1991年4月生まれの30歳、徳島商→青山学院大学→JR西日本を経て2015年のドラフト10位で入団されています。チームの主砲である吉田正尚選手は青山学院大学の2年後輩であり、2015年のドラフト同期(吉田選手はドラフト1位)でもあります。

身長1m90㎝、体重104㎏の巨漢選手で、元々飛距離とパワーは並外れていましたが、最初の4年間は一軍出場がわずか35試合、その間に一軍で放った安打は13本、うち7本がホームランという、極端に言うと「ホームランか三振か」というバッターでした。

杉本選手はそれまでの経験から「打てなかったら落とされる」という焦りの気持ちからボール球にまで手を出してしまう悪いクセがあったようです。ところが今シーズンの開幕戦、6番ライトで出場した杉本選手は1,2打席目で凡退し、3打席目に代打を送られ、過去の苦い記憶がよみがえったようです。

しかしその時、辻竜太郎打撃コーチから「相手との相性もあるから今日は2打席で終わったけど、また使うから、気にすんな」と声をかけられ、その言葉に救われたようです。自分は信頼されている。この1打席、1試合で終わりじゃない。そうした気持ちの余裕が以降の打撃に好影響を与え、どっしりと構えて球を見極められるようになったそうです。

その後、紆余曲折はあったものの経験を積む中で成績も徐々に上昇し、終わってみれば打率.301(リーグ3位)、144安打(リーグ5位)、83打点(リーグ3位)、32本塁打(リーグ1位)という押しも押されもしない実に見事な成績を残されました。まさに中嶋監督のチーム改革の象徴のような選手となられました。

他にも高卒2年目の紅林弘太郎(クレバヤシ コウタロウ)選手がショートのレギュラーポジションをもぎ取りましたが、この選手も中嶋監督の二軍監督時代の教え子にあたります。紅林選手の成長によってベテランの名手安達了一選手がセカンドにコンバートされましたが、それによって内野の守備は鉄壁の体制となっています。

シーズン序盤で選手の見極めがなされ、守備位置の入れ替えや打順の変更が細かくなされていきました。そしてリーグ5位の順位で突入した交流戦で一気に開花し、12勝5敗1分で交流戦を優勝し、以降は順位の入れ替えはあったものの、常に上位の立場でペナントレースが戦われました。

メジャーリーグから4年ぶりに復帰した抑えの平野佳寿投手の他は、昨シーズンとほとんど顔ぶれも変わらないチーム、しかも今シーズンも10年連続の開幕戦黒星でスタートしたチームがリーグ制覇を遂げるとは、ほとんどの野球ファンどころか、野球評論家や解説者の方々の想像も超える快挙だったと思われます。

チームの負け犬根性を一掃し、若手選手を「育てながら勝つ」というテーマに沿ってチーム力を見極め、選手の配置転換や抜擢を繰り返しながら優勝するまでにチーム力を高めたのは、中嶋監督のマネジメント力の勝利だったと言っても過言ではないと思われます。

中嶋監督は一軍実働29年という長い現役生活の中で6人の優勝監督(仰木監督・東尾監督・伊原監督・ヒルマン監督・梨田監督・栗山監督)に仕えてこられました。その裏ではうまくいかなかった監督が率いるチームでの経験も数多く積んでおられます。こうしたことの全てが、自らの監督像を作りあげていく上で参考になっておられることは間違いないと思われます。

中嶋監督は選手起用についてこんなことを語っておられます。「僕はどの選手に対しても一度の失敗では外さない。必ず再度チャンスを与えます。なんとか取り返そうとする姿を見せてくれたら、僕は我慢できますね」。

こういう監督の姿勢が浸透したのかシーズンの半ばからは、以前は勝負どころで縮こまっているように見えた選手たちが、ミスを恐れず伸び伸びアグレッシブにプレーするようになった、と言われています。

今シーズン外野守備走塁コーチを務めた田口壮コーチは「中嶋監督はすごく寛大で我慢強く、やらせてみて失敗したら、次を考えるという感じの方です。だから選手はやりやすいと思います。選手は基本的には失敗するものだから、ということを前提に考えておられて、じゃあそこからどうするんだ、ということを大事にされている方です」と語っておられます。

併せてとても細かいところまで見ている方のようで、こんなところまで見ているのか、と担当コーチがビックリするようなことまでご存知だそうです。そうした観察眼をベースとする「ひらめき」かと思われるような采配が当たることも非常に多いようで、今やチーム内のコーチも中嶋監督の信奉者として心酔している方が結構おられるような感じがします。

そんな中嶋監督が、これからクライマックスファイナルシリーズで千葉ロッテマリーンズを相手に日本シリーズ進出をかけて戦います。絶対的エースである山本由伸投手が第一戦に出て来られることはほぼ間違いなさそうです。自らが見極め、場を与え、真の戦力として育て上げてきた選手たちと共に、どんな采配を振るわれ、どんな戦いをされるのか、本当に興味はつきません。

クライマックスファイナルシリーズ、その先の日本シリーズのご健闘を心よりお祈りすると共に、今年の大躍進が一年の珍事で終わらぬよう、来シーズン以降の黄金期到来へ繋がっていくことを心より祈念したいと思います。中嶋監督の武運長久、益々のご活躍を心より願ってやみません。

(おわり)
2021/11/11

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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