高津臣吾監督~2年連続最下位から優勝へ導いた、見事な一体感!【第157回】

高津臣吾監督~2年連続最下位から優勝へ導いた、見事な一体感!【第157回】

2021年のプロ野球は全日程を終了し、セリーグは東京ヤクルトスワローズ、パリーグはオリックス・バッファローズの優勝で幕を閉じました。共に開幕前の下馬評では優勝候補との声はほとんど上がっていませんでした。両チームともここ2年間連続して最下位と低迷していたこともあり、この前評判も無理からぬところであったのかもしれません。

だとすると何がここまで劇的にチームを変えることになったのか、今回はまず東京ヤクルトスワローズの高津臣吾(シンゴ)監督を取り上げさせていただきます。まず高津監督のプロフィールをご紹介させていただきます。

高津監督は1968年11月生まれの52歳、広島県広島市のご出身です。幼少の頃に住んでいたマンションの部屋の窓から移転前の広島市民球場がよく見えたそうで、ミスター赤ヘル・山本浩二選手のファンで広島カープの熱狂的な大ファンだったそうです。

小学校3年生から野球を始め、後に広島工業高校に進学されています。高校時代に自らに何か特徴を持たせたいと考え、投球フォームをスリークォーターからアンダースローに変えられたようです。3年生の時には春夏の甲子園に一塁手兼控え投手として出場し、春には準々決勝にまで勝ち進まれています。

その後大学は亜細亜大学に進まれ、2年生の時に球速を上げる為にアンダースローからサイドスローに投球フォームを修正されました。そして4年生時には春秋のリーグ戦(東都大学リーグ)に連続優勝、同年の大学野球選手権にも優勝し、大学球界で高い評価を手にされています。

ご本人は卒業後の進路として広島カープへの入団を希望しておられたようですが、当時の広島カープに横手投げ投手を獲得する意志はなく、結局1990年秋のドラフト会議でヤクルトスワローズから3位指名を受け、プロへの第一歩を記されました。

ヤクルトスワローズでは入団当初、先発投手として期待されていましたが、特に目立った武器を持つ投手ではなかった為か、1年目は1勝1敗、2年目は5勝3敗、共に防御率は4点台と早くも頭打ちの兆しが見え始めていたようです。ただ2年目を終えた秋のキャンプで転機が訪れます。

当時チームの監督であった故野村克也監督に遅いシンカーの習得を命じられ、つきっきりの指導を受けると共に「球界を代表する抑えになれ」と声をかけられたそうです。意外なことに、入団当初の高津投手は気が弱くて、ここぞの場面で力を発揮できないタイプの投手だったそうです。

そんなタイプの横手投げ投手を抑えに抜擢したところが野村監督の慧眼であり、名将と謳われた所以だったのだと思われます。持てる才能を一気に開花させた高津投手は、入団3年目の1993年、56試合に登板して20セーブ、防御率2.30の好成績でヤクルトスワローズのリーグV2と15年ぶりとなる日本一にも貢献されました。

以降も1995年、1997年のリーグ優勝・日本一に貢献。野村監督が築かれたヤクルト黄金時代を抑え投手として支え続けられました。若松監督の代に代わった以降も2001年のリーグ優勝・日本一に貢献すると共に、1994年・1999年・2001年・2003年に最優秀救援投手のタイトルを4回獲得するなど、日本球界を代表する抑え投手としての立場を確固たるものとされています。

2003年のシーズンオフにはFA権を行使され、13年間在籍したヤクルトスワローズからメジャーリーグのシカゴ・ホワイトソックスへの移籍を決断されました。高津投手、35歳の新たな船出でした。結局メジャーリーグには2年間在籍し、99試合に登板して8勝6敗27セーブ8ホールド防御率3.38という記録が残されています。

その後入団テストを受けて、古田敦也氏が監督に就任された東京ヤクルトスワローズに復帰。2006~2007年の2年間で計26セーブを挙げられましたが、2年目にケガによる戦線離脱の時期があって以降は調子が戻らず、結局チームから戦力外通告を受け、再びチームを離れられています。

その後も現役続行を表明し、2008年は韓国リーグのウリ・ヒーローズ、2009年は再びメジャーリーグを目指しサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約、2010年は台湾リーグの興農ブルズ、2011年には再び日本で独立リーグの新潟アルビレックスBC、2012年には新潟アルビレックスBCの監督兼選手を務め、この年をもって現役選手としての活動に終止符を打たれました。

日本・米国メジャーリーグ・韓国・台湾の四つのリーグを経験した唯一の日本人選手であり、名球会会員(投手200勝または250セーブ、野手2000本安打で有資格)で独立リーグでプレーした史上初めての選手でもありました。こんな誰も経験したことのないようなキャリアをもって、2014年シーズンより東京ヤクルトスワローズの一軍投手コーチとして、高津臣吾氏の指導者としての第二の野球人生がスタートしました。

高津コーチが就任した2014年は小川淳司氏が監督の時代でしたが、チームが再び低迷の時期に入っており、2013年も最下位でした。そんな中2014年はチーム防御率、チームの失点がリーグ最下位となり、チーム成績もセリーグ最下位という結果に終わっています。

ただ高津コーチ就任2年目の2015年は真中監督の就任一年目であり、高津コーチによる投手陣の整備も進み、チーム防御率・チーム失点数が共にリーグ4位となり、前年より改善されました。更に抑えのトニー・バーネット投手のリーグ最多41セーブ・防御率1.29という成績を筆頭に救援防御率リーグ1位を記録した投手陣を背景に、チームは一気に優勝まで駆け上がりました。

ただ翌2016年はケガ人が続出した上に、前年の優勝の立役者であったバーネット投手がメジャーリーグへ復帰すると、その穴が埋まらずチーム成績は5位に、チーム防御率・チーム失点数も最下位に転落してしまいました。高津コーチはその責任の一端を背負われたのか、翌2017年から3年間は二軍監督としてジックリ若手の育成に力を注がれました。

そして小川淳司氏が二度目の監督に就くも再び最下位に転落をした2019年のオフに高津監督が2020年シーズンより一軍監督に就任されることが発表されました。ただ低迷するチームを初年度から立て直すことは出来ず、高津監督の就任1年目は最下位に終わってしまいました。

巻き返しを期する今シーズンを迎えるにあたって、高津監督は多くの部分を一人で決め、責任を自ら背負うという昨シーズンまでのやり方を改め、コーチに任せるところは任せ、戦術・戦略で各コーチの力に頼ることを決意されたようです。打順や起用法、守備シフトなどにおいて違う視点からの意見をお互いに尊重し合うという趣旨だったようです。

その上で従来から高津監督がチームマネジメントの基本中の基本と考えておられる「選手を気持ちよくグラウンドに立たせてあげたい」という方針を徹底されることに注力していかれます。まず第一は選手のケガ・故障に細心の注意を払うことであり、常にフルメンバーが揃っている状態で戦うことを目標に据えられました。

この「ケガをさせない」という方針は2月の沖縄キャンプから徹底されていたようで、この裏ではトレーナー陣の奮闘が大きかったようです。毎日選手の状態を確認し、練習量を管理されたようです。トレーナー陣の間では「積極的に休養」が合言葉になり、1日無理をして1週間出られなくなるなら、1日休ませる、という方針が徹底されたようです。

選手とトレーナー、トレーナーと首脳陣が密に連携を取り、積極的に休養を取らせたようです。これはシーズンに入ってからも、投手陣は登板翌日には必ずトレーナーと状態について話合い、細かく状態を把握し「大きな故障を未然に防ぐ」という意識がチーム内に深く共有されていったようです。

こうしたチームの方針は、他球団に比べてヤクルトは休みが多いといった外野からの声としてチーム内にも聞こえていたようですが、この「大ケガにせず、“小ケガ”に」というマネジメントが主力選手に長期離脱者を出さない結果に繋がり、それがひいてはシーズン終盤のチームの結束力を一段と高めることにも繋がったようです。

東京ヤクルトスワローズというチームは打撃のチームというのが一般的なイメージですが、今シーズンに関して言えば高津監督は投手力のアップが優勝を引き寄せた決め手だったと明確に語っておられます。優勝チームであるにも関わらず、規定投球回に到達した投手は昨年同様一人もおらず、10勝に到達した投手も一人もいない状態であるにも関わらずです。

それはチーム防御率が如実に示しています。2019年の4.78、2020年の4.61は今シーズン3.48へと劇的に改善されました。1点、2点のビハインドの展開では2年連続で最優秀中継ぎのタイトルを獲得した清水昇投手ら勝ちパターンの中継ぎ陣を起用しないという方針がシーズンの終盤に差し掛かるまで、頑なに守られました。

また先発投手も中6日登板といった形で固定せず、投手のコンディションをみながら柔軟に先発投手が決められています。今シーズン先発投手が中8日以上の間隔で登板した試合が56回、昨シーズンが120試合制のもとで19回であったことに比べても大幅に増えていますし、12球団でも断トツの数字です。

この象徴が、今や東京ヤクルトスワローズのエースと言ってもよい存在にまでのし上がってきた奥川恭伸(ヤスノブ)投手です。一回投げると登録を抹消され、中9日あるいは中10日というローテーションが頑なに守られました。

一見過保護にも見えますが、まだ高卒2年目の発展途上で、しかも昨年一度肘の故障をしている奥川投手に対して、結果が出ても決して無理をさせない、来年以降の絶対的なエースに育て上げるという高津監督やコーチ陣の固い信念のような起用法が目につきました。

更に奥川投手に対してもう一つ付け加えるなら、東北楽天ゴールデンイーグルスの投手コーチから今シーズン東京ヤクルトスワローズの投手コーチに復帰された伊藤智仁コーチから、ストライク先行の攻めの姿勢と意識改革について徹底的な指導を受けた結果、7/1の阪神戦から7試合連続での無四球投球を実現し、このことが他の投手陣へ多大なプラスの影響力を及ぼしたようです。

こうした一見細かな起用法や指導が、チーム全体の与四球率をリーグ最少に引き下げ、リーグ最低だった奪三振率をリーグ最高に引き上げたのだと思われます。そしてこうしたことの積み重ねが、高津監督に投手力のアップが優勝を引き寄せたと言わしめた要因だったのだと思われます。

高津監督は師事した故野村克也監督から監督業のなんたるかについて多くのことを学ばれたようですが、その中の一つが「言葉の力」だったようです。かつて二軍監督を務めておられた時、今やチームの主砲となった村上宗隆選手に対して、こんなことを語っておられたようです。「小さくなるなよ。スイングも、人としても、スケールの大きな人間になれ。グラウンドでみんなから注目されても恥ずかしくないように、しっかり、堂々とやりなさい」。

そんな高津監督の「言葉の力」が遺憾なく発揮されたのが、9月7日の甲子園球場での対阪神タイガース戦の試合前、室内練習場で行なわれたミーティングの場だったようです。その日東京ヤクルトスワローズは首位阪神タイガースと3.5ゲーム差、その日がチームにとっての100試合目の試合でした。

高津監督は「絶対大丈夫。自分を理解し周りを信じてチームスワローズが一枚岩になれば絶対崩れない。絶対大丈夫。なにかあったら僕が出ていく。なにかあったら僕に相談してくれ。自分で抱え込まないでコーチに相談してくれ。絶対大丈夫。絶対いけるから」と熱く語りかけたそうです。

選手たちが硬くなったり、緊張するようなことがあれば、どこかでそれをほぐす為の言葉をかけてあげなくちゃいけないな、と常々思っておられたようで、それを語るのがまさに9月7日というタイミングだったということのようです。この日以来「絶対大丈夫!」はチームの合言葉となり、ファンもこの言葉が書かれたタオルを掲げ、ファンとチームも一体となっていったようです。

「勝って浮かれることなく、負けて尻込みすることなくあろう」、そして「常に前向きに予習をして復習をして、明日も頑張ろう」という思いを込めた高津監督なりの言い回しが「絶対大丈夫!」という表現に凝縮されたようです。そして9/7のミーティングで話されたフレーズの中に出てくる「絶対に崩れない」という言い回しには次のような意図が込められていたようです。

「シーズンの終盤になるとチームの輪、人と人とのつながりが更に重要になってきます。選手にはそれぞれに役割があります。自分の役割をきちんと理解することはもちろん大切ですが、他の人の役割、仕事をきちんと理解し合うことが出来れば、チームの輪は決して崩れません」。

この9/7のミーティングが行なわれた6日後の9/13のバンテリンドームでの対中日ドラゴンズ戦、9回表の攻撃で審判団の不明瞭な判定の下、不完全燃焼のままチャンスを潰して0-1で東京ヤクルトスワローズの敗戦が決まってしまいました。ただそこから15分にも及ぶ高津監督の猛抗議が行なわれました。

高津監督も抗議の結果、判定が覆るとは思っておられなかったようですが、抗議の権利は監督にしかない以上、黙って引き下がる訳にはいかなかったようで、監督の熱い言葉、必死に戦っている姿は選手の心に間違いなく訴えかけるものがあったようです。

宮出隆自ヘッドコーチは、あそこから明らかにチームはいい方向に動き出したのを感じたと語っておられます。事実、その翌日からチームは13試合負けなし(9勝4分)で、優勝へ向けて一気にギアを上げていくことになりました。

まさに言葉の力、その威力の大きさを感じずにはいられません。シーズン終盤の東京ヤクルトスワローズはチーム全体が高津監督の発する言葉の魔法にかけられたかのようです。「絶対大丈夫!」「絶対に崩れない!」という言葉が暗示か催眠のように選手とチーム全体に力を与えたようにも思えます。

東京ヤクルトスワローズは前述したとおり、前回優勝した2015年以降、今シーズンを迎えるまでの5年間のうち2018年を除くと、あとの4年間はずっとBクラス、直近の2年間も含めて3回も最下位になっていたチームです。そんなチームが一気にリーグ制覇を成し遂げた裏では、チームの一体感とそれを引き出したマネジメント能力が目立った1年でもありました。

シーズン開幕当初は昨年から続く貧打は解消されておらず、オープン戦は最下位、開幕カード3連敗から始まった今シーズンでしたが、不調の選手の配置転換や調子のいい選手の活用で少しずつ陣容を整え、勝ち星を積み重ねていきました。

シーズン143試合を前後半に分けてみると、前半72試合は35勝29敗8分、後半71試合を38勝23敗10分で戦っており、貯金の数を見ると前半の+6に対して後半は+15と、シーズン終盤にかけてチーム力を整え、優勝というゴールへ向けて綿密にプランが練られていたことが見てとれます。

もちろんこれは高津監督お一人の力ではなく、フロント、監督、コーチ、選手、裏方スタッフまでを含めた、まさにチーム力の勝利だったのだと思われます。
ただこれまで見てきたとおり、近年このチームは優勝も出来るが最下位にも沈むという浮き沈みを繰り返してきています。この浮き沈みの沈みをなくし、かつての野村監督の黄金時代のように高津監督の黄金時代が築かれることを願ってやみません。

これから始まるクライマックス・ファイナルシリーズ、そしてその後に控える日本シリーズを東京ヤクルトスワローズがどう戦っていくのか、その中で高津監督がどんな采配を振るわれるのか、本当に楽しみです。高津監督の益々のご健闘を心よりお祈りしたいと思います。

(おわり)
2021/11/4

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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