栗山巧選手~打撃の職人が努力で掴んだ2000本安打!【第155回】

栗山巧選手~打撃の職人が努力で掴んだ2000本安打!【第155回】

プロ野球のペナントレースはいよいよ残り試合も30試合前後となり熱戦が続いています。セリーグもパリーグもリーグ制覇へ向けての勝負はまだ暫く続きそうです。そんな中、この9月4日に高卒入団20年目のベテラン選手が2000本安打の達成という金字塔を打ち立てました。今回は偉業を成し遂げたいぶし銀のようなバット職人、埼玉西武ライオンズの栗山巧選手を取り上げさせていただきます。

栗山選手は1983年9月3日生まれの38歳、神戸市西区出身の右投左打の外野手です。小学校1年生で野球を始め、小学校時代・中学校時代は地元の少年野球団でプレーし、高校は神戸市にある私立の育英高等学校に進学されました。

育英高校では2年時に3番左翼手として春夏の甲子園に出場されています。春は一回戦での敗退でしたが、夏はベスト4まで勝ち進み、ご自身も打率.348、9打点の活躍をされました。ただ3年時は夏の兵庫県予選の5回戦で敗退し、2年連続での甲子園出場はなりませんでした。高校通算47本塁打の成績を引っさげ、2001年秋のドラフト会議で西武ライオンズから4巡目での指名を受け、プロへの第一歩を記されています。

ちなみにですが、栗山選手の高卒同期入団が中村剛也選手(通称おかわり君)です。ドラフト2巡目指名の中村選手は大阪桐蔭高校の出身であり、入団発表の際には同じ新幹線に乗って東京へ向かったそうです。そんなお二人が片やホームラン王6回、片や2000本安打を達成するほど成功し、今も同じチームの生え抜きの主力として活躍を続けておられることは奇跡のようにも思えます。

ただ栗山選手が一軍選手としてデビューするまでには、約3年近くの年月がかかっています。ひたすら二軍での鍛錬を重ね、イースタンリーグではそれなりの実績を積み重ね、満を持しての一軍デビュー戦は入団3年目のチーム最終戦となる2004年9月24日の大阪近鉄バファローズ戦でした。

この試合は対戦相手の近鉄球団にとっても特別な試合でした。オリックスブルーウェーブとの合併で球団の消滅が発表されており、その試合は本拠地大阪ドームで近鉄バファローズとして戦う最終戦でもあったのです。観客48000人と発表されており、異様な雰囲気の中での試合だったようですが、そんな中でスタメン9番レフトで一軍デビューを果たした栗山選手は記念すべきプロ初安打を記録され、名実ともにプロ野球選手としての足跡を残されました。

入団4年目、一軍選手としての栗山選手にとっては実質2年目となる2005年には出場試合が一気に84試合まで増え、85安打を放って打率.297と一軍選手としての確かな実績を残しておられます。

ケガの為に翌2006年は出場試合数が減ってしまいましたが、2007年には出場試合数が初めて100試合を超える112試合となり、7月以降はスタメンにも定着し、オフには背番号も入団以来の52番から1番に変更され、名実共にチームの主力の一員として扱われる立場にまでのし上がってこられました。

栗山選手は西武一筋で20年間のプロ生活を送ってこられた訳ですが、大きな影響を受けたお一人が現ゼネラルマネジャーの渡辺久信氏だったのではないかと思われます。渡辺GMはエースとして西武黄金時代を支えた後、台湾球界で指導者も兼ねた現役生活を終え、野球評論家、解説者としての活動を経て、2004年に2軍の投手コーチとして埼玉西武ライオンズに復帰されました。

そしてそこで高卒3年目の栗山選手と出会っておられます。渡辺GMの栗山選手に対する第一印象は、元気で活きが良く、きつい練習をさせてもへこたれない“強い選手”というものだったようです。2005年から渡辺GMが二軍監督も兼務されるようになってからは、打撃投手として栗山選手相手に投げ込まれることもあったようです。

打撃投手としての立場から眺めた栗山選手は、1球たりとも気を抜いたスイングをせず、本当に強い気持ちを持って練習に取り組む選手だったようです。今回の栗山選手の2000本安打達成に寄せたコメントでは、一番練習の出来る時期にしっかり練習した礎が今日の2000本に繋がっていると述べておられます。渡辺GMは二軍で練習に明け暮れていた時代の栗山選手を真横で見てこられた訳です。

そして背番号も1番に替わり、栗山選手がチームの中心選手のお一人となられた時期に、2008年シーズンより監督に就任されたのが渡辺GMでした。埼玉西武ライオンズは前年リーグ5位に低迷し、しかも4番5番を打っていたカブレラ選手、和田一浩選手がチームから抜けて、新たにチームを作り直す必要のあった時期での監督就任でした。

当時コーチを務めておられた大久保博元コーチらとどう打線を組むかを話し合い、1番の片岡治大(当時易之・現読売ジャイアンツ3軍野手総合コーチ)選手の後の2番に栗山選手を抜擢されました。

渡辺監督が当時栗山選手を高く評価しておられたのは、打ちたい球を我慢して2ストライクまで追い込まれたところから自分の勝負が出来る打撃技術の高さと勝負強さだったようです。そんな状況の中で最多安打のタイトルも獲ったことで評価はゆるぎないものとなったようですし、チームも前年の5位から一気に日本一にまで躍進されました。

転機となった2008年は栗山選手ご自身が初めて規定打席に到達して打率.317、チーム内3位の49四球、同2位の出塁率.376、得点圏打率.325、72打点を記録し、前述の最多安打のタイトルを獲ると共に初めてパリーグのベストナインにも選出されました。名実共にチームの主力選手、リーグを代表する選手のお一人としての立場を確立されました。

ここ以降は毎年ほぼ全試合に出場する中でコンスタントに3割前後の打率を残し、打者としての技量に磨きをかけ、もうチームにとって欠くべからざる存在として益々存在感を高めていかれました。栗山選手の打者としての特徴は、手元までボールを呼び込み、その上でバットを振り切る点にあると言われています。

選球眼に優れ、三振が少なく四球が選べる上に、相手投手に球数を費やさせる能力に極めて優れた選手と評価されているようです。相手チームからすると粘っこく、どんな球種にも対応できて、しかも広角に打ち分ける技術も持ち合わせているということで、実に嫌らしい厄介な対戦相手というイメージを持たれているようです。

一軍に定着した当初から暫くの間は、打撃に比べると守備と走塁は課題とされていた時期もあったようですが、これも不断の努力で徐々に克服し、2010年には外野手部門のゴールデングラブ賞を獲得するまでに進化されたようです。そういった意味でもあらゆる技量を自らに課した練習で地道にレベルを上げていかれたことが分かります。

栗山選手は20年の年月をかけて2000本安打を達成されましたが、ここへ至る通過点として、2016年6月19日の東京ヤクルトスワローズ戦で史上120人目となる通算1500安打を達成し、3年後の2019年8月31日には石毛宏典選手が持っていた球団の通算安打記録1806本を更新する1807本目の安打を打たれました。

そしてコロナ禍の影響で120試合に短縮して実施された昨シーズン終了時点でヒット数は1926本、残り74本で今シーズンを迎えることとなりました。ここで球団は栗山選手をバックアップする為、37歳のベテラン選手に対しては異例とも思える3年契約の提示を行なっています。心置きなく戦ってもらう為の
球団が示した最大限の支援だったのだと思われます。

そして今シーズンを迎えられ、開幕戦から好調だったところが、左下肢の張りで3月31日にいったん登録抹消の措置がとられました。4月18日に二軍戦で実戦復帰を果たされましたが、これが約15年ぶりとなるイースタンリーグ公式戦への出場だったようです。

その後4月20日に一軍復帰すると、6月12日の対中日ドラゴンズ戦で史上52人目となる通算2000試合出場を達成。6月23日に通算安打数が1970本となったところで、球団が公式に「ONE ROAD」と題するカウントダウン特設サイトを公開するなど、栗山選手の2000本安打達成へ向けての支援体制が整えられていきました。

そして通算1998本で迎えた9月3日の楽天戦では史上初となる「誕生日での2000本安打達成」に注目が集まりましたが、4回打席に立って1安打、バースデー到達とはなりませんでした。そして翌4日の楽天戦の第4打席、かつてのチームメイトの牧田和久投手からレフト前にヒットを打ち、史上54人目の2000本安打を達成されました。埼玉西武ライオンズの生え抜き選手としては初となる快挙でした。

栗山選手は今回達成した2000本安打の中で忘れられないヒットを二本挙げておられます。1本目は前述したプロ初安打、そしてもう1本は2009年4月9日のオリックス戦で打ったシーズン初安打だそうです。この2009年シーズンは、前年に主力打者として日本一にも貢献し、オープン戦で12球団トップの打率4割をマークし、自信を持って臨んだにも拘らず、大きくつまづいてしまいました。

なかなかヒットが出ず、結果としては27打席目にようやくシーズン初安打が出たのですが、そこへの過程では二軍時代の練習と同じように、当時の渡辺監督に試合後の室内練習場で打撃投手もしてもらう等、やっと打った時のライト前ヒットは今も鮮明に覚えておられるようです。後に2000本まで記録を伸ばす栗山選手が、1本のヒットを打つことの難しさを身にしみて思い知らされた忘れられない1本だったようです。

埼玉西武ライオンズというチームは、主力となった選手がFAを活用して活躍の場を他チームに求めるケースが多い球団ですが、そんな中で生え抜き選手として初となる2000本安打を達成された栗山選手は、その背景を面白おかしくこんな風に語っておられます。

「所沢にいるとどこに行くにも時間がかかるじゃないですか。都心に出るのも1時間ぐらいはかかるので、試合が終わってご飯に行こうって約束もしない。それやったら、ちょっと打って帰ろうかなって。野球をやるにはこれ以上ない環境なんですよ。それが僕がこの球団を一番好きな理由ですね。」

栗山選手は高校時代に甲子園に出場しベスト4まで勝ち進んだ選手ではありましたが、特にスーパースターとして鳴り物入りでプロに入った選手でもなく、又ずば抜けて身体能力が高かった訳でもなく、言ってみればプロに入ってくる平均値レベルの選手であったのかもしれません。

そんな選手が2000本安打を達成する程の選手に大成できたのは、一にも練習、二にも練習、真摯に野球に向き合い、ひたすら努力を続けたからに他なりません。栗山選手の存在はチームの若手選手が目指すべきロールモデルであり、正しい努力の先に見えてくる成果の答を身体で示してくれる、まさに生きた手本なのだと思われます。

残念ながら今シーズンは故障者・ケガ人が多かったこともあり、投打がうまく噛み合わず、残り30試合を切った現時点では上位進出は絶望的となっています。今後チームを再建する際のひとつの手段である若手選手の育成・鍛錬といった意味合いでは、チームの首脳陣にとっては、若い時の練習はウソをつかないことを示す、生きた実例が栗山選手であり、こんな素晴らしい実例を示せることはチームにとってもこの上なく幸せなことだと思われます。

栗山選手はいずれ埼玉西武ライオンズでコーチあるいは監督としての道を歩んでいかれる方なのだとは思いますが、来シーズン以降のチーム再建にはまだまだ戦力としての栗山選手の力が必要だと思われます。

いぶし銀のような打撃の職人として、これからも末長くファンを魅了し続けて欲しいものです。ケガと故障に細心の注意を払っていただき、来シーズン以降ももっともっと長く現役プレーヤーとして輝き続けていただくことを切に願いたいと思います。栗山選手の益々のご活躍をお祈りしています。

(おわり)
2021/9/21

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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