松坂大輔投手~さらば!松坂世代とまで言わせた投手の終焉【第154回】

松坂大輔投手~さらば!松坂世代とまで言わせた投手の終焉【第154回】

東京オリンピックの開催に伴なう約一ヶ月の休みを挟んだプロ野球は8月13日に再開され熱戦が繰り広げられていますが、その陰で一時代を築き上げた一人の選手が今シーズン限りで現役を引退することが、ひっそりと発表されました。まばゆいばかりに輝きを放った野球人生の前半期、そしてケガと故障に苦しみながらも復活をかけて必死にもがかれた後半期。

今回は、ついに復活をすることなく静かに現役生活に別れを告げる決断をされた一人の名選手の足跡を追ってみたいと思います。その選手の名は、埼玉西武ライオンズでの引退を決断された“平成の怪物”松坂大輔投手です。

松坂投手は1980年9月生まれですが、この1980年生まれのプロ野球選手は、藤川球児投手(元阪神タイガース等)、杉内俊哉投手(元読売ジャイアンツ等)、和田毅投手(福岡ソフトバンクホークス現役)、村田修一内野手(元読売ジャイアンツ等)、東出輝裕内野手(元広島東洋カープ)等々、活躍が目立つ選手の多かった世代ですが、この世代を総称して松坂世代という言い方が広くなされています。

松坂投手は青森県青森市で生まれ、東京都江東区で育っておられます。5歳から小学校3年生までは剣道に打ち込んでおられたようですが、小学校3年生で江東区の東陽フェニックスというクラブチームに入部し野球を始められました。

中学時代は江戸川区の江戸川南リーグ(リトルリーグ)に所属し、高校は神奈川の横浜高校に進学されています。高校入学の当初の段階はあまり練習熱心な選手ではなかったようですが、高校2年の夏の神奈川大会で準決勝の横浜商業高校戦で自身の暴投によるサヨナラ負けを喫して以降、猛練習に取り組まれるようになったそうです。

高校3年生の時点で球速は150kmを超え、切れ味鋭いスライダーを武器に、普通の高校生ではとても相手にもならないようなレベルを示されていたようです。2年生秋の新チーム結成以降、秋の神奈川県大会、関東大会、明治神宮大会をすべて負けなしで制覇し、その勢いで3年生春のセンバツ甲子園大会でも他校を寄せつけず優勝。そして圧巻は3年生夏の甲子園大会でした。

ご記憶に残る方も多いかもしれませんが、準々決勝のPL学園高校戦では延長17回250球を投げ切って完投勝利。準決勝の明徳義塾戦でも1イニングを投げて逆転勝利。京都成章高校と戦った決勝戦ではノーヒットノーラン(決勝戦では史上二人目)の完投勝利で優勝と、もう表現の仕様がないほどの大活躍でした。

チームの大黒柱として活躍された松坂投手ですが、ただこのチームにはご自身の他に後にプロ野球選手になられた同期の選手が3人(小山良男氏・・元中日、現中日ドラゴンズ球団スカウト、後藤武敏氏・・元西武、元DeNA、現東北楽天ゴールデンイーグルス二軍打撃コーチ、小池正晃氏・・元横浜、元中日等、現横浜DeNAベイスターズ外野守備走塁コーチ)もいるほどの、まさに超高校級レベルのチームでした。

夏の甲子園の後に地元神奈川で行なわれた国体(かながわ・ゆめ国体)でも優勝し、前年秋の新チーム結成後、公式戦44連勝を達成されています。そしてその秋に行なわれたドラフト会議で3球団競合(日本ハムファイターズ、横浜ベイスターズ、西武ライオンズ)の末、交渉権を獲得した西武ライオンズへ入団されました。ちなみにドラフト直後のインタビューでは意中の球団は横浜ベイスターズであったと明かされています。

入団1年目(1999年)のシーズン開始早々からローテーションを任され、デビュー戦となった4/7の東京ドームでの日本ハムファイターズ戦を8回2失点で初勝利。更に4/21の千葉ロッテマリーンズ戦では相手エースの黒木知宏投手と投げ合い、0-2で惜敗。よほど悔しかったのか、試合後のインタビューで「リベンジします」と宣言されました。

そして翌週4/27のロッテ戦で再び黒木投手と投げ合い、1-0で初完封を記録し、見事リベンジを果たされました。更に5/16のオリックス・ブルーウェーブ戦ではイチロー選手との初対決が話題となりましたが、3打席3三振(1四球)とほぼ完璧に抑え、試合後のヒーローインタビューでは「プロでやれる自信が確信に変わりました」と語られたことが話題となりました。

最終的に1年目は16勝5敗の成績で最多勝のタイトルを獲得すると共に、規定投球回に到達した投手の中では最高の勝率を記録し、ゴールデングラブ賞と共に高卒新人としては史上初となるベストナインにも選ばれ、高卒新人投手としては堀内恒夫氏(元読売ジャイアンツ)以来33年ぶりとなる新人王にも輝かれています。

入団2年目の2000年は10代での開幕投手を務め、最終成績は14勝7敗、3年目の2001年は15勝15敗の成績を収め、入団から3年連続で最多勝のタイトルを獲得されましたが、これは高卒新人としては史上初のことでした。2001年には沢村賞も受賞されていますが、選考過程で敗戦数の多さから反対意見もあったものの、両リーグで唯一15勝を挙げていること、登板回数が240.1回と他を圧倒していることが評価されたようです。

その後も活躍を続け、結局アメリカへ渡るまでの8年間を過ごした西武ライオンズで通算204試合に登板して108勝60敗、その間に最多勝3回、最優秀防御率2回、最多奪三振4回のタイトルを獲得し、併せてベストナイン3回、ゴールデングラブ賞にも7回選出されています。

2006年3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の優勝も加え、もう日本でやるべきことは全てやり尽くしたという感じで、戦いの場を米国のメジャーリーグへ移すことを決断されました。松坂投手26歳、まさに最盛期での移籍でした。

ポスティングシステムを活用しての移籍表明となった松坂投手にはニューヨーク・ヤンキースをはじめ数球団が入札に参加したようですが、紆余曲折はあったもののボストン・レッドソックスが独占交渉権を獲得し、6年契約で総額5200万ドルでの契約が成立し、2007年シーズンよりメジャーリーガーとしての戦いを開始されました。

当然のようにチームのローテーションを守る先発陣の一角として、4/5のメジャー初先発で初勝利を挙げると、4/11のマリナーズ戦ではイチロー選手と対戦、4/27にはヤンキース・松井秀喜選手との対戦も実現しましたが、共に無安打に抑えメジャーリーガーとして順調な滑り出しを見せられました。

結局メジャーリーガーとしての1年目は、後半の一時期不調に陥る時期があったものの、年間トータルでは15勝を挙げて201奪三振、チームの12年ぶりの地区優勝に貢献し、勢いを駆ってコロラド・ロッキーズと戦ったワールドシリーズも制覇、松坂投手ご自身もワールドシリーズで先発し勝利を挙げられましたが、ワールドシリーズでの先発と勝利は共に日本人として初となる快挙でした。

翌2008年は、東京ドームで行われたメジャーリーグの日本開幕戦に先発することからシーズンが始まり、年間トータルで18勝3敗、防御率2.90という成績を挙げ、チームの2年連続のポストシーズン出場にも貢献されました。ただ登板イニング数は前年を下回る167.2回(前年は204.2回)となっており、先発で18勝以上を挙げた投手のなかではメジャー史上最少であったことから、松坂投手の好成績は野手やリリーフ陣のお陰とする声もあったようです。

メジャー3年目の2009年はシーズン開幕前に行なわれた第2回WBCの日本代表メンバーに選ばれ優勝はしたものの、シーズン開幕後は2試合連続で打ち込まれ、初の故障者リスト入り。結局シーズンを通して4勝しか挙げられず、チームは3年連続のポストシーズン進出を果たしたものの、松坂投手に登板の機会はありませんでした。

メジャーに移籍して4年目となる2010年、松坂投手ご自身が30歳を迎えるシーズンでしたが、キャンプの前から背中の張り、首の張りを訴え、初めて開幕を故障者リスト入りして迎えることとなりました。5月に復帰して、好不調の波は結構あったものの、年間通して9勝、2年連続で規定投球回数未達に終わってしまいます。

この後、松坂投手はボストン・レッドソックスに2年、一時期のマイナー契約(クリーブランド・インディアンス傘下)を経て、ニューヨーク・メッツに2013年シーズンの後半から1年半、計8シーズンをメジャーリーグで過ごされたことになりますが、リリーフも含めてメジャーで挙げた通算56勝のうち46勝は最初の4年で挙げたものであり、後から振り返ると松坂投手の野球人生の前半期は、西武時代とレッドソックス時代の最初の4年間の計12年間であったように思われます。

メジャー時代の後半4年は右肘のトミー・ジョン手術をはじめ、右僧帽筋や左脇腹、右肘の炎症等で幾度かに渡っての故障者リスト入りを繰り返し、ついに自らメジャーリーグでの現役続行を断念し、日本に戻られることを決意されます。松坂投手34歳の決断でした。

日本に戻った松坂投手は、その後福岡ソフトバンクホークスで3年、中日ドラゴンズで2年、埼玉西武ライオンズで2年の計7年間、復活を掛けての努力の日々を過ごされました。しかし結果から振り返ると、中日ドラゴンズで復活のきざしを掴まれたかに見えた2018年のシーズンを除くと、ほとんどマウンドに立つことさえ出来ない苦しい日々を過ごしておられます。

最初の福岡ソフトバンクホークスでは、3年12億円という今から振り返ると信じられないような大型契約が提示されています。もちろん戦力としての期待値が大きくての大型契約だったのですが、この裏では孫正義オーナーの鶴の一声があったのだと言われています。

「これだけの選手が日本でもう一度復活を掛けて戦いの場を求めるのなら、それにふさわしい処遇で迎えるのが当然であろう」という、まさに財力のあるオーナーならではの決断があっての大型契約でした。そこには松坂投手の過去の栄光に対する深いリスペクトの念が感じられました。しかし松坂投手は復活出来ませんでした。

結局一軍のマウンドに立てたのは2年目となる2016年のシーズン最終戦となる東北楽天ゴールデンイーグルス戦の1試合だけでした。この試合が約10年ぶりとなる日本での登板であり、事前に報道もなされた為、対戦相手の当時の監督であった梨田昌孝氏もその盛り上がりに一役買って出られます。

元チームメイトの松井稼頭央選手を代打で出場させることを明言し大きな話題にもなったのですが、その松井選手相手の初球に死球を与えるなど、1回で被安打3、与四死球4、暴投1の5失点(自責点は2点)という結果で、翌日には一軍登録を抹消され、これが福岡ソフトバンクホークスでの唯一の登板でした。

その後、2017年の暮れに中日ドラゴンズが入団テストを行なうことを発表し、翌年の正月明けにナゴヤ球場の屋内練習場で完全非公開の入団テストが行われ、即日合格が発表されました。この裏には、松坂投手が新人として西武ライオンズに入団した際の投手コーチであった、森繁和中日ドラゴンズ監督の存在が大きかったのだと思われます。

森監督は「やり尽くすまでやればいい」と後押しされていましたが、その言葉もあってか2018年のシーズンでは年間を通して11試合に登板(すべて先発)し、55.1回を投げて6勝4敗、防御率3.74とそれなりの成績を残されました。更にファン投票1位でオールスター戦にも出場し、シーズン終了後には連盟からのカムバック賞も受賞されています。

復活のきざしを掴まれ、更なる活躍も期待されていた翌2019年のシーズンでしたが、春季キャンプで右肩を故障され、結局この年はわずか2試合、5.1回の登板に終わってしまいました。残念だったのは、この右肩故障がキャンプ中のファンとの接触が原因となったらしいと報じられたことです。気をつければ回避できていたかもしれないと思うと、松坂選手ご自身にとっても見守るファンにとっても実にやるせない出来事でした。

もう松坂投手の現役生活もここまでかと思われましたが、今度は古巣の埼玉西武ライオンズが獲得を発表されます。14年ぶりの復帰でした。その裏にはかつてのチームのエースで、今はチームのゼネラルマネジャー(GM)を務めておられる渡辺久信氏の存在があったと言われています。

渡辺久信GMは「シーズンの勝ちが1勝2勝でも松坂の獲得はチーム内に与える相乗効果がある」と語っておられましたが、それは松坂投手の長年の経験を生かした助言や練習への取り組みを見て、チームの若手の意識が変わったり、そこから何かを掴み取ってくれれば、という期待だったのだと思われます。

しかし埼玉西武ライオンズでの2年間、松坂投手は一度もマウンドに立てませんでした。一軍はおろか、二軍のマウンドにすら立てませんでした。今はもう松坂投手の身体は満身創痍の状態なのだと思われます。松坂投手は周囲の親しい友人には「心が折れてしまった」と語っておられるようです。

今シーズンのキャンプインの際には「メットライフドームのマウンドに立って勝つということを目標に、一日でも早くチームに貢献できるようにやっていきたい」というコメントを出されていました。

一番苦しいのは間違いなくご本人です。しかし日本に戻ってからの7年間、復活はならなかったものの、福岡ソフトバンクホークスの孫正義オーナー、中日ドラゴンズの森繁和元監督、埼玉西武ライオンズの渡辺久信GMの松坂投手に対するリスペクトと深い愛情をくみ取ることが出来、同じ日本人として何かホッとした気持ちを感ずることが出来ました。

契約と理屈だけでは割り切れない、日本人の心の琴線に触れたような今回の松坂投手の引退発表でした。普通の選手であれば有り得ないような7年間だったのだと思われます。

まばゆいばかりに輝きファンを熱狂させた前半期、ケガと故障の中で復活へ向けてもがき苦しまれた後半期、この両方の局面から松坂投手ご自身がかけがえのないご経験を手にされているはずです。

それを次は何らかの形でプロ野球を目指す後進の育成、あるいはプロ野球界の発展の為に還元してもらいたいなと願っています。引退発表は球団からは行なわれましたが、まだご本人の口からは何も語られていません。心の傷が少し癒えた段階で報道陣の雨で直接これまでの23年間を振り返っての話をしていただきたいものです。

松坂投手、長い間ご苦労様でした。1980年生まれのプロ野球選手を総称して呼ばれてきた「松坂世代」が静かに幕を閉じ、また新しい時代がやってくることを大いに期待したいと思います。

(おわり)
2021/9/1

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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