大島康徳氏~自らの寿命を生ききった一人の野球人!【第152回】

大島康徳氏~自らの寿命を生ききった一人の野球人!【第152回】

まもなく始まる東京オリンピックの為、現在プロ野球はオリンピック休暇期間(再開は8月13日の予定)に入っています。前半戦を終えた時点で、セリーグ首位は阪神タイガース、パリーグ首位はオリックスバファローズとなっていますが、2位以下のチームとの差は僅差であり、全く予断を許さない状況です。

このオリンピック休暇期間中はエキシビジョンマッチと称する練習試合がセパ交流戦の形式で行なわれる予定ですが、シーズン中にこんなに長い休暇期間が入ること自体が異例のスケジュールとなりますので、各チームがどんな調整を行ない、後半戦に臨んでくるのか、興味は尽きないところです。

という訳でプロ野球が休暇期間に入った今回の当コラムでは、先日ご逝去された一人のプロ野球人を取り上げさせていただきます。その方は癌との闘病の末70歳という若さで亡くなられましたが、現役時代は中日ドラゴンズ、日本ハムファイターズの選手として活躍され、その後日本ハムファイターズでは監督も務められた大島康徳(ヤスノリ)氏です。今回は大島康徳氏への追悼コラムとして執筆させていただきます。

大島氏は大分県中津市のご出身で1950年(昭和25年)10月生まれ、お亡くなりになられた本年6月30日で享年70歳でした。現役時代は外野手、内野手、指名打者として活躍されましたが、野球を始められたのは意外に遅く、大分県立中津工業高校に入学されてからだったようです。

中学時代はバレーボールの選手だったようで、バレーボールでは大分県選抜チームのレギュラーだったそうです。併せて相撲も強く、相撲部の助っ人として大会に参加されることもあったようで、ある相撲大会に観戦に来られていた中津工業高校野球部の小林監督に惚れ込まれて、当初はあまり乗り気ではなかった同校に入学、野球部に入部されることになったそうです。

ところが持ち前の運動能力の高さで瞬く間に頭角を表わし、同校野球部のエース・4番として活躍されます。高校2年時(1967年)の秋季九州大会県予選、高校3年時(1968年)の春季九州大会県予選はいずれも準決勝まで進出、3年夏の甲子園を目指しての大会は県予選の途中で敗退し、残念ながら甲子園出場の夢はかないませんでした。

ただ3年夏の県予選の大分商業高校戦で130mの特大ホームランを打った場面が、たまたま視察に来ていた中日ドラゴンズのスカウトの目に留まり、後日中日ドラゴンズの入団テストを受けることになったようです。そして入団テストでは当時の本多逸郎二軍監督の目に留まり合格。1968年秋のドラフト会議で中日ドラゴンズは3位での指名を行ない、大島選手はプロへの第一歩を投手として記されることとなりました。

当時大島氏は大学へ進んで野球を続けることを第一希望とされていたそうです。ただどこか特定の大学へ行きたいという強い希望があったという訳ではなく、超一流のところへ行って二番手・三番手になるぐらいなら、仮に二流のところでも一番手になった方がいいな、というような思いを持っておられた方のようです。

後年ご本人が語っておられますが、担当スカウトの方と本多逸郎二軍監督との出会い、助言がなければ大島氏のプロ入りは実現しなかったのかもしれません。そういう意味では、まさに運命の糸に逆らわずに乗っかったことでスタートしたプロ野球人生でした。守るものが何もなかったと言えばいいのか、まさに無欲の状態から始まったと思われますが、このことは大島康徳氏のプロ野球人としての潔さの原点であったのだと思われます。

こうして投手として入団された大島選手ですが、入団間もない時期の投球練習で投手コーチから早々に「投手失格」を言い渡されるも、一方でほぼ同じ頃に当時の水原茂監督から打撃の素質を見抜かれ、打者転向を命じられます。大島選手のプロ入りに大きな影響を与えてくれた本多逸郎二軍監督は、大島選手を将来の主軸と見込み、二軍戦においては1年目から四番打者として起用してくれました。

入団からの2年間は体力づくりと鍛錬に明け暮れ一軍での出場はありませんでしたが、入団3年目の1971年6月に一軍戦に初出場。その直後に外国人の一塁手が故障した為、同年は主に一塁手、中堅手として64試合に先発出場すると共に、ジュニアオールスターゲームではウェスタン・リーグの主砲としてMVPも獲得するなど、着実に進化の足跡を刻んでいかれました。

そして一軍選手としての2年目となる入団4年目の1972年、開幕から主に中堅手、右翼手として起用され、初めて規定打席にも到達されました。ただし打率はまだ.230、打撃成績はセリーグの29位、まだまだ粗削りで好不調の波もあり、レギュラー定着とは言い切れない状態でした。

その後も鍛錬を重ね、年間の打率の推移を見る限り着実に進化していかれます。この間1974年のリーグ優勝にも貢献するなどチームにとって不可欠な選手としての立場を固めつつ、ついに入団9年目の1977年、初めて100本超の安打を打ち、チームの主砲としての立場を確固たるものとされました。

この年は130試合中126試合に出場し、打率.333(リーグ4位)、144安打、27本塁打、71打点といずれもキャリアハイの好成績を収められました。大島選手27歳のシーズンでしたが、この年から数年間は現役選手としての大島選手が最も輝やかれた時期だったと思われます。

1979年には全130試合で4番打者に座り、打率.317(リーグ3位)、36本塁打、159安打(リーグ最多)の記録を残されています。ちなみにですが、今は最多安打は打撃タイトルとして公認されていますが、当時はまだタイトルとしての連盟表彰はありませんでした。大島選手が獲得された唯一の打撃タイトルは1983年のホームラン王(36本)でした。(広島東洋カープの山本浩二選手と同時に獲得)

大島選手は一流選手と呼ぶにふさわしい打撃成績を残しておられることは事実なのですが、一方で代打での起用が結構多い選手でもありました。これは大島選手はバッティングの好不調の波が結構激しく、併せて守備にも難があったからと言われています。殊勲打を打っても失策でフイにしてしまうといったことも結構あったようです。今となっては、これも大島選手の個性であり魅力の一つとも言えなくはありませんが・・・。

中日ドラゴンズの中心選手として長年に渡ってチームに貢献された大島選手でしたが、1987年オフに星野仙一監督のチーム改革により、2対2の交換トレードで新天地の日本ハムファイターズへ移籍されることになりました。既に37歳になっておられましたが、チームが得点力不足という課題を抱えていたこともあり、主軸としての立場を任されます。

移籍からの2年間(1988~1989年)は全130試合に出場し、1988年はチーム最多の63打点をあげ、1989年には節目となる350号本塁打を打っておられます。そして移籍3年目の1990年8月21日のオリックス・ブレーブス戦では佐藤義則投手からタイムリー二塁打を打ち2000本安打も達成されました。39歳10か月での達成は当時の最年長の記録であり、到達までに要した試合数2290も当時の最年長記録でした。

結局日本ハムファイターズでは44歳を迎える年まで7年間、第一線でプレーを続けられました。最後のシーズンとなった1994年も代打起用がメインとはなっていましたが、打率.323・21安打・22打点を挙げるなど、ご本人の気持ちの中では与えられた打席でしっかり結果は出してきたという自負とあと2年はやれるとの気持ちを持っておられたようです。しかし球団からは「来年はもう契約はしません。ご苦労様でした。」と戦力外通告を出されたようです。

ご本人はプロ野球選手になった時から、必要ないと言われたらパッと辞めよう、逆に必要とされるのなら給料が下がっても続けようという気持ちをずっと持ち続けておられたようです。この年チームが最下位になったことで大沢啓二監督が退任し、後任に阪急ブレーブスで黄金時代を作った上田利治氏の監督就任が決まっていたようで、自らの年齢のことや自らを取り囲む状況を判断し、もう潮時との判断を下されたのだと思われます。

そしてその年の9月28日のロッテ戦で引退試合が行われ、伊良部秀輝投手から2安打し、チームメイトから胴上げされ、26年に及ぶ現役生活に別れを告げられました。生涯成績として、2638試合に出場し、2204安打、382本塁打、1234打点、88盗塁、生涯打率.272という立派な成績を残しておられます。

引退後は翌年の1995年から1999年までNHKの野球解説者、スポーツ新聞での野球評論をされていましたが、2000年に古巣の日本ハムファイターズから監督のオファーが入り、指導者としての一歩を踏み出されました。1年目は首位から4.5ゲーム差の3位と健闘されましたが、2年目はケガ人・故障者が続出し、先発ローテーションが崩壊し、借金31を抱えての最下位。

復活を期待されて3年目も指揮をとられましたが、前年よりはチーム力を改善することは出来たものの、借金15での5位という結果に終わり、このシーズンをもって監督としての生活は終わりになりました。自らの努力だけではどうにもならない要素を含む監督業の難しさや厳しさを痛感された3年間だったのかもしれません。

ここまで見てきたとおり、大島選手は26年間のプロ野球生活で通算2204本のヒットを打った押しも押されもしない名球会選手なのですが、しかし一方で名球会選手の中でたった二人しかいないベストナインに一度も選ばれなかった選手でもあります。(もうお一人は元大洋ホエールズの松原誠選手・通算安打数2081本)

また完全にレギュラーに定着される前の時期ではありましたが、1996年にはシーズン代打本塁打7本という記録も打ち立てておられます。これは今も破られない日本球界の年間代打本塁打記録ですし、私が調べた範囲では米国メジャーリーグの年間最多代打本塁打は6本となっており、年間7本の代打本塁打は世界的な価値ある記録と言ってもいいのかもしれません。

このように大島選手は、人々の記憶にもしっかり残るような強いインパクトを与えながらも、世間的には地味な印象も与える不思議な名選手だったのだと思われます。晩年はNHKの野球解説者として分かり易く親しみやすい解説で多くの人々を引き付けてこられました。

2017年2月には自身の公式ブログで「2016年10月にステージ4の大腸がんになり手術を受けていたこと、肝臓にも転移していること」を公表されました。余命1年との宣告を受けてからも約4年半にわたって解説の仕事や、野球コラム、ブログ等を通じた活動を続けてこられましたし、張本勲氏らと共に野球教室の仕事にも関わっておられたようです。

そして亡くなられる18日前の本年6月12日にNHKBS1のメジャーリーグ中継で、大谷翔平選手が所属しておられるロサンゼルス・エンゼルスとアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦の解説をされたのが最後の仕事となられました。

分かり易く親しみ深い解説と人柄は多くの人に慕われ、ご逝去が公になってからは各方面から多くの反響が寄せられ、息子でもあるお笑い芸人の大島雅人さんはあまりにも多くの反響に驚いたと感謝の気持ちを綴っておられました。

平均寿命も延びた現代では70歳の逝去はあまりにも若すぎるのかもしれません。ただ自らのブログには「病気に負けたんじゃない。俺の寿命を生ききったということだ」と綴っておられます。運命の糸に逆らわずに足を踏み入れたプロ野球人生における26年間の現役生活、3年間の指導者生活、そして通算20年以上に及んだ野球解説者としての人生、まさに何の悔いも残さない見事な人生だったと思われます。

「自らの寿命を生ききったんだ」と言いきれる生き様こそが、人生の晩年に差し掛かった人間が憧れを抱く生き方のように思えてなりません。大島康徳氏のご冥福を心よりお祈りしたいと思います。

(おわり)
2021/7/19

「福山義人のプロ野球に学ぶ組織論」一覧に戻る

筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

※福山義人氏への講演依頼はこちらから