佐野恵太選手~ドラフト最下位指名からトップ選手へ!【第138回】

佐野恵太選手~ドラフト最下位指名からトップ選手へ!【第138回】

3ヶ月遅れの6月19日に開幕したプロ野球も、試合消化がまもなく100試合に到達するところまで進んでいます。パリーグでは福岡ソフトバンクホークスと千葉ロッテマリーンズの白熱の首位攻防戦が繰り広げられていますが、セリーグは読売ジャイアンツの独走状態が加速し、今シーズンはセリーグではクライマックスシリーズが行なわれないこともあって、既に興味は個人タイトルへ移っています。

そんな中、実質的にレギュラーとして定着した1年目にも拘らず、セリーグの首位打者タイトル獲得へ向けて前進を続ける選手がおられます。今回はその選手、横浜DeNAベイスターズの佐野恵太選手を取り上げさせていただきます。

佐野選手のプロフィールですが、1994年11月生まれの25歳(まもなく26歳)、岡山県岡山市出身の右投左打の野手です。実は佐野選手にはとても身近な伯父(佐野選手の母親の兄)にかなり著名な元プロ野球選手がおられます。佐々木誠氏(現・鹿児島城西高等学校野球部監督)といって、1984年に南海ホークス(後・福岡ダイエーホークス、現・福岡ソフトバンクホークス)に入団後、西武ライオンズ、阪神タイガース時代も含めて、通算17年間プロ野球選手として活躍されました。

この間、首位打者、最多安打(2回)、盗塁王(2回)のタイトルを獲得すると共に、外野手部門でベストナインに6回、ゴールデングラブ賞も4回獲っておられる、走攻守のバランスのとれた名選手でした。佐野選手が小学校に入学される前年が伯父である佐々木選手の現役引退の年と思われますが、佐野選手は幼少の頃より身近にプロ野球の世界を感じながら育ったものと思われます。

長じて佐野選手は広島の広陵高等学校へ進まれましたが、広陵高校では2年時から控え内野手としてベンチ入りし、後には捕手もされていました。前後の学年には2学年上に有原航平投手(現・北海道日本ハムファイターズ)、福田周平内野手(現・オリックスバッファローズ)、1学年上には上原健太投手(現・北海道日本ハムファイターズ)、2年後輩に太田光捕手(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)と後にプロ入りして活躍しておられる選手が何人も出ていますが、残念ながら佐野選手ご自身は甲子園への出場は叶いませんでした。

その後明治大学へ進学し、2年時から東京六大学のリーグ戦に出場し、主に一塁を守り、4番打者を務めたこともあったようです。大学のリーグ戦通算では、打率.270、54安打、6本塁打、33打点という成績を残されましたが、ドラフト候補として名を馳せるほどの選手ではなかったようです。

そして迎えた2016年秋のドラフト会議当日、当時横浜DeNAベイスターズのゼネラルマネジャーであった高田繁氏が「予定の人数を超えてしまうけど、もう一人いいか?」と発せられた一言に、同じテーブルについていた球団代表に就任されたばかりの三原一晃氏(現・専務取締役球団代表)が、「後悔するのは嫌ですから獲りましょう」と答えられたそうです。

ドラフト1位指名の濱口遥人投手以下、予定していた8名の選手の指名を終えた後の9番目の指名でした。その年支配下登録選手として指名された87人中84番目、セリーグでは最後の指名でした。守備力、走力を含めた総合評価という点で、他球団の候補者リストには上がらなかったようです。当時の高田GMの佐野選手指名の狙いは、次世代の代打育成だったとのことでした。

ドラフトの最後に指名された佐野選手に球団としての過度の期待はなかったはずです。通常下位指名の新人選手はまずファームで育成、となるはずなのですが、当時就任2年目であったラミレス監督が佐野選手の才能を見抜かれました。ファームを飛び越えていきなり一軍に帯同された佐野選手は、オープン戦で積極的に起用されると3割以上の打率を残し、ルーキーながら開幕一軍ベンチ入りを果たされました。

プロ野球選手になれたかどうかのギリギリの存在であったドラフト9位指名の選手が、一気に開幕一軍ベンチ入り、まさにシンデレラストーリーに他なりません。ラミレス監督は「選球眼が良く、スイングスピードが速い。なによりもタイミングの取り方がチームの誰よりも素晴らしい」と佐野選手のバッティングセンスを称賛されたそうです。特にタイミングの取り方という、練習でも容易に向上させることは難しい天賦の才能を一気に見抜いてしまわれたラミレス監督の慧眼は驚くばかりです。

こうして一軍選手としてプロ生活をスタートした佐野選手ですが、そのまま活躍できるほど甘い世界ではなく、結局1年目は18試合の出場にとどまり、21打数2安打と大きな壁に跳ね返されました。しかし2年目も開幕一軍メンバーに選ばれ、一度は二軍落ちを味わうも、再び一軍に登録された交流戦の福岡ソフトバンクホークス戦で、相手エースの千賀滉大投手から公式戦初本塁打を打つなど、着実な進化を見せ始めておられます。

結局2年目の2018年は出場試合数も73試合まで増え、29安打5本塁打を放って打率.230という記録を残されました。そして3年目となった昨シーズン(2019年)は、出場試合数は89試合まで増え、本塁打の5本は前年と同数だったものの、ヒット数(59本)、打点(33点)は前年比で倍増し、打率も.295を記録するところまで進化されました。

三塁を守る宮崎敏郎選手がケガで戦線離脱された際には、筒香嘉智選手が三塁を守り、空いた左翼を佐野選手が守る機会も増え、シーズン後半には今シーズンの現在のオーダーを見据えていたかのように、4番を任されるケースも出てきました。こうしてチームのレギュラーシーズンの2位確保と横浜スタジアムでの初めてとなるクライマックスシリーズ開催にも貢献され、チームの主要メンバーの一人として存在感を高めていかれました。

そして迎えた今シーズン、昨年までのチームの主砲であり、主将として精神的な支柱でもあった筒香嘉智選手のメジャーリーグ(タンパベイ・レイズ)への移籍に伴う後任として、ラミレス監督は佐野選手をチームの主将に任命し、4番も任せる決断をされました。3月に行なわれたオープン戦では全12球団の選手のトップとなる11打点を挙げられましたが、コロナ禍で開幕が遅れる中、シーズンの開幕直前に行なわれた練習試合では調子が上がらず、主将の重責が重圧になっているのでは、との声も上がったようです。

確かに開幕28試合目までホームランは出ませんでした(全12球団の開幕4番打者で最も遅い記録)が、開幕戦から9試合連続安打を記録するなど、ヒットを順調に打ち続けたことで、まわりの心配を自ら打ち消されました。筒香選手が抜けた後もソト選手、ロペス選手、オースティン選手、宮崎選手といった強打者が揃う中、当初は「つなぎの4番」という見方がなされていましたが、今や強力打線の一角を担う、押しも押されもしない堂々たる4番打者に成長されました。

ラミレス監督もほれ込んだ選球眼の良さやスイングスピードの速さといった元々持ち合わせていた特徴に更に磨きがかかり、簡単には三振をせず、内角の球はしっかり引っ張ることができ、外角の球は広角に打ち返すことのできる、相手投手にとっては実に嫌なバッターになられつつあります。10月11日現在で16本(リーグ10位)打っておられる本塁打が更に増えてくれば、より一層存在感を高めていかれるものと思われます。

佐野選手という方は元々明るくポジティブな性格の持ち主だそうです。今季より就任された主将の役割について、こんな事を語っておられます。「自分の役割は、勝っている時よりも負けが込んできた時、チームが苦しくなった時にこそ、先頭を切っていいムードに戻すことだと思っています。ピンチの時こそが自分が一番仕事をしなくちゃいけない時なんです」。

またチームメートや首脳陣とも主将としてしっかりコミュニケーションをとっておられるようですし、コミュニケーション能力も高いと評価されています。まだ大卒4年目という立場でありながら、佐野選手を中心にチームがまとまりつつあるようで、チームをまとめる主将という面でも高い適性を発揮されつつあるように思われます。

2016秋のドラフト会議で前GMの高田繁氏が発した「予定の人数を超えてしまうけど、もう一人いいかな?」の一言、三原一晃球団代表の「後悔するのは嫌ですから獲りましょう」の一言、そしてドラフト9位で入団したチームの監督が外国人ながら2000本安打を打ったラミレス監督であったこと、そのラミレス監督が佐野選手の天賦の才能を一発で見抜かれたこと、何か偶然に導かれたようにも思える反面、必然に導かれた結果であったようにも思えます。

佐野選手の今日ある姿を、ラミレス監督が手取り足取り細かく指導をされたというイメージはあまり涌いてきません。まさにラミレス監督は才能を見出し、才能が開花する機会と場を与え、主将と4番という立場を与えることで後押しをされました。それに佐野選手が自らの努力で応えられたということだと思います。

自らも気づいていなかったかもしれない才能を見出してくれる人に巡り合えたことが佐野選手の持つ強運です。この強運に更に磨きをかけ、益々大きく羽ばたいていかれることを願っています。

10月11日現在、佐野選手はセリーグの打率部門と安打数において現時点で首位(打率.335、安打数126本)に立っておられます。ぜひタイトルを獲得していただき、来年以降のチーム飛躍の主役となっていただきたいものです。そして併せて、将来は日本を代表するスラッガーとして誰もが認める強打者の立場を不動のものとされることを願っています。

(おわり)
2020/10/12

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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