津田恒実投手~今も心の中に生きる、炎のストッパー!【第131回】

津田恒実投手~今も心の中に生きる、炎のストッパー!【第131回】

5月も半ばを過ぎましたが、2020年のプロ野球はまだ始まりません。新型コロナウィルスの感染者の数は落ち着き始めており、早ければ6月後半にも開幕の可能性はありそうですが、既にオールスターゲームの中止も発表され、どちらにしろ異例な形でのシーズンとなることは間違いありません。

という訳ですので今回もレジェンドの選手を取りあげさせていただきます。
皆さんは元広島東洋カープの津田恒実(ツダ・ツネミ)投手を覚えておられるでしょうか?

もう亡くなられて27年近くとなりますが、今も広島の地では絶大な人気を誇り、昨年5月30日にオープンした「津田恒美記念館」はオープンから1ヶ月で約5000名の来館者があったそうです。(津田投手は入団4年目より登録名を恒美(ツネミ)→恒実(ツネミ)に変更されましたので、ここでは選手としての津田投手はすべて「恒実」を使わせていただきます)それでは津田投手のプロフィールより紹介させていただきます。

津田恒実投手は山口県都濃郡南陽町和田(現・周南市)のご出身でした。生まれは1960年8月1日、亡くなられたのは1993年7月20日、享年32歳でした。山口県立南陽工業高校時代には1年時よりエースとして活躍され、3年時には春夏の甲子園に出場し、春の選抜では準々決勝まで進出しておられます。

高校卒業後は山口県防府市に本拠を置いていた社会人野球の協和発酵工業(現・協和キリン)に入社しておられます。1981年の都市対抗野球大会では電々中国の補強選手として出場し、1回戦で優勝候補の富士重工業を抑えて注目を浴び、同年秋のドラフト会議で広島東洋カープから1位指名を受け、入団されています。

入団時の監督であった古葉竹識氏には入団当初から大きな期待を寄せられ、入団初年度の1982年には先発投手として11勝6敗の好成績を残し、球団初の新人王のタイトルを獲得されました。入団2年目には初のオールスター戦にも選出される等、シーズン途中までは順調でしたが、後半からはルーズショルダー(動揺性肩関節症・肩の関節があらゆる方向に正常以上の範囲で動いてしまう症状)や右手中指の血行障害に悩まされ、登板機会が激減してしまいます。

入団3年目・4年目は不本意な状態を余儀なくされましたが、この間に当時世界でも初めてと言われた右手中指の靭帯摘出手術を受けたり、1985年のシーズンからは登録名を本名の「恒美」から「恒実」に変え、背番号も入団時の15番から14番に変更されています。この期間の地道な努力が実り、入団5年目の1986年には抑え投手として見事な復活を果たされます。

この1986年、津田投手は抑え投手としてシーズン前半を防御率0点台で折り返します。後半は少し調子を落としたもののシーズントータルでは4勝6敗22セーブ、防御率2.08でチームの5度目のリーグ制覇に貢献し、シーズン終了後にはカムバック賞を獲得されています。そしてご自身として初めて出場された日本シリーズ(対西武ライオンズ)でも、敗れはしたものの優秀選手賞を獲得されています。

リリーフ・抑えに転向後の津田投手は主に速球主体のピッチングを繰り広げられましたが、中でも1986年は投げた球種の90%以上がストレートであったと言われており、変化球はほとんど投げなかったようです。当時の同僚でもあり、後に監督も務められた山本浩二氏は津田投手のストレートを「ホップする直球」と称しておられ、打者の側からすると、分かっていてもなかなか打てないボールだったようです。

そんな中、この年には後々まで語り継がれている二つの名勝負が生まれています。ひとつは5月8日の甲子園球場で行なわれた対阪神タイガース戦でのランディ・バース選手との対戦です。バース選手は前年の1985年とこの1986年にも2年連続で三冠王に輝いており、まさに脂の乗り切った絶頂期の頃です。場面は9回裏4対4の同点で2アウト満塁、阪神タイガースにとっては一打逆転サヨナラ勝ちのチャンスで巡ってきたバッター・バースでした。

元々津田投手は自他共に認めるメンタル面に弱さを抱える選手だったそうです。「弱気は最大の敵」「一球入魂」という津田投手の座右の銘も、元は自らの精神的な弱さを克服するための心掛けの中から身につけていかれたものだったようです。ただこの頃にはどんなバッターにも真っ向から立ち向かう投球スタイルを確立されていました。

そしてピンチになればなるほど球速も上がっていく傾向があったようで、バース選手との対戦も全て150㎞を超えるストレートで挑み、見事3球三振でピンチを脱しておられます。この時、実況したテレビ局のアナウンサーは「津田、スピード違反!」と叫ばれたそうですし、試合後バース選手は「ツダはクレイジーだ」とのコメントを残されたそうです。

もうひとつの勝負は、その年の9月24日、後楽園球場で行なわれた巨人戦での4番・原辰徳選手(現・読売ジャイアンツ監督)との対戦です。その年、広島東洋カープと読売ジャイアンツは熾烈な優勝争いを繰り広げており、原選手はこの試合の時点で36本のホームランを打っていたチームの主砲でした。しかしこの試合の前の段階で左手首を痛めておられて、6~7分の力でしかバットを振れない状態だったようです。

ただ全力投球で真っ向勝負を挑んでくる津田投手に対して、自分の力をセーブするなんてダメだと思ったんですよ、と後年原辰徳氏は語っておられます。その7球目、津田投手の渾身のストレートにフルスイングで応えた原辰徳選手でしたが、ボールとバットが当たった瞬間バキッと音がして、原選手は左手首の有鈎骨を骨折されてしまいます。

結局原選手はこのシーズンの残り全試合の欠場を余儀なくされ、翌シーズン以降は左手グリップの持ち方が難しくなったとの理由から、打撃スタイルの変更も余儀なくされたそうですし、ホームランの数もこの年の36本を超えることは一度もありませんでした。この骨折の代償は、それほど大きいものでした。

しかし後年この場面を振り返って語られる原辰徳氏は何か嬉しそうです。ご本人も「骨が折れたことに悔いはなかったですよ。津田というのは、そういう風に思わせてくれるピッチャーでしたね」と振り返っておられます。真剣勝負を戦い、お互いを認め合ったライバル同士だけに許される至福の感情に浸っておられるようにも思えました。

津田投手は復活した1986年から1989年までの4年間、チームのストッパーとして活躍されました。右肩痛の影響で20セーブをあげるも、リリーフ失敗も目立ち9敗もしてしまった1988年のような年もありましたが、1989年には12勝5敗28セーブ、防御率1.63と再度の復活を遂げ、最優秀救援投手のタイトルも獲得し、セリーグを代表する抑え投手としての地位を確固たるものとされています。その投球スタイルとも相まって、人は津田投手を「炎のストッパー」と賞讃するようになっていました。

しかし津田投手の輝きはここまででした。翌1990年はケガの為に僅か4試合の登板に終わると、同年のシーズン終了後から頭痛をはじめとする身体の変調を訴えるようになられたそうです。そして体調不良を抱えた状態で迎えた1991年、4月14日に行なわれた広島市民球場(当時)での読売ジャイアンツ戦、1点リードの8回表に、先発した北別府学投手の後を受けて登板されるも、打者3人に対してわずか9球で2安打1死球2失点。

これが生涯最後の登板でした。くしくも最後に対戦しタイムリーヒットを打たれた相手は原辰徳選手でした。この最後の登板後、一塁側ベンチ裏で津田投手は「もう投げる自信がなくなった」という言葉を繰り返し、池谷公二郎投手コーチの前で声をあげて泣いたと伝えられています。

最後の登板から2年3ヶ月後、津田投手は32歳という短くも大きな輝きを放った人生を終えられました。没後、1994年から7回忌の1999年まで、背番号14番にちなんで7月14日に「津田メモリアルデー」という催しが開催されていたそうです。その初年度には旧広島市民球場に、津田投手の功績と人柄を讃え「直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために」との文章が浮き彫りにされたメモリアルプレート(津田プレート)が設置されました。

同球場に設置された個人の記念碑は連続試合出場記録を樹立した衣笠祥雄氏に次いで2人目だったようです。今は、このプレートは新本拠地である「MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島」に移設されています。また2012年の1月に津田投手は野球殿堂入りも果たされました。

津田投手は10年間のプロ野球人生で、登板数286試合、49勝41敗90セーブ、防御率3.31という記録を残しておられます。記録として残された数字だけなら、津田投手を上まわる投手は何人もおられるのかもしれません。しかし、打てるものなら打ってみろ、と言わんばかりの速球主体で打者に真っ向から勝負を挑むプレイスタイルゆえに、ファンの心に植えつけたインパクトの大きさは計り知れないほど大きいものであったように思われます。

若くして思いの半ばで亡くなってしまった方ゆえに、その存在を惜しむ思いは人々の心から永遠に消えないのかとも思われます。冒頭で少し触れた「津田恒美記念館」ですが、これは津田投手が亡くなられた時にまだ4歳であった一人息子の大毅さん(現31歳)が紆余曲折を経ながら、球団の正式な協力も得て、クラウドファンディングで資金を集めて数年がかりで開設にこぎつけられたものです。

目標400万円で始めた資金集めは初日の5時間で達成し、最終的に1631人の方の支援を得て2600万円の資金が集まったそうです。没後20数年がたっても、津田恒実に思いを馳せることが広島東洋カープというチームを愛する心に繋がり、それを思う人が広島に縁を持つ人であれば、広島という故郷を思う気持ちにも繋がっているように思えてなりません。

ここまで書いてきて、私は後年チームを支えた二人の選手の存在が脳裏に浮かびました。同じ時期にチームを離れ、7年後の同じ時期にチームに戻って来られた黒田博樹投手と新井貴浩選手です。大歓迎の嵐の中をメジャーリーグから凱旋帰国された黒田投手とタダ同然の年俸で「やりたければどうぞ」という雰囲気の中での復帰となった新井選手でしたが、二人の野球に取り組む真摯な姿勢とひたむきな練習態度がチームを結束させ、リーグ三連覇の礎となられました。

球団・チームとファンと地域が一体となって織り成すカープワールド、これは没後27年となる津田恒実投手を今も思うファンの心と底流では間違いなく繋がっているように思えます。そしてそのことが独特のチーム文化を形作っているのだと思われますし、12球団のそれぞれのチームが持つ独自の文化こそが日本のプロ野球の魅力を発散してくれているのだとも思います。

もしご存命であれば津田恒実さんは今年8月1日に60歳の還暦をお迎えになられるはずでした。今更ながらではありますが、心よりご冥福をお祈りすると共に、新型コロナと共生する世界の中での開幕を、多くのプロ野球ファンの皆さんとご一緒に静かに待ちたいと思います。

(おわり)
2020/05/20

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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