関根潤三氏~野球に愛された男の生涯【第130回】

関根潤三氏~野球に愛された男の生涯【第130回】

2020年のプロ野球は新型コロナウィルスの影響で開幕のメドは全く立たず、5月26日~6月14日に予定されていた交流戦を中止することまでは発表されましたが、以降のメドはまだ立っていません。よって前回の稲尾和久氏に続き、今回もかつてのレジェンドを取りあげさせていただきます。

今回のレジェンドは、つい先だっての4月9日に93歳で亡くなられた関根潤三氏です。

野球評論家としての関根氏、監督としての関根氏を記憶にとどめておられる方は多くおられると思いますが、現役時代の関根氏のプレーぶりをはっきり覚えておられる方は、もうかなり少なくなっているように思います。現役最後の年が1965年であり、55年前のことですから無理もありません。ということで関根氏のプロフィールを簡単にご紹介することから始めさせていただきます。

関根潤三氏は1927年(昭和2年)3月15日(戸籍上)生まれ、当時の東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿(現東京都渋谷区神宮前)のご出身です。実際の誕生日は1926年(大正15年)12月25日だったようですが、その日が大正天皇の崩御の日で役場が休みであったこと、後に父親が届けを提出することが遅れたことで翌年の3月15日となったようですが、このことで関根氏のもとには召集令状が届かなかったとのことです。

関根氏は10歳前後歳の離れた二人の兄がいる末っ子で、野球をやっていた二人の兄の影響で小学生時代から自然と野球に親しむ環境だったようです。次兄が旧制日大三中(現日大三校)で主将をやっていた時代の野球部の監督が藤田昇三氏という方だったようで、この次兄にくっついて監督の自宅にも遊びに行っていたこともあり、自然の流れで関根氏は旧制日大三中に入学されたようです。

旧制日大三中では2年生から左利きの二塁手をされたり、3年生の頃からは投手として活躍されたようですが、旧制中学時代は甲子園出場の経験はありませんでした。そしてこの旧制日大三中で出会った恩師・藤田省三監督と同級生の根本陸夫氏(後に捕手としてプロ入り、広島・西武・ダイエーの監督、管理部長等の球団フロントを歴任、1999年72歳で没)の二人が関根氏の後の人生に様々な形で影響してきます。

関根氏は後に法政大学に進学されていますが、これも旧制日大三中の藤田監督が兼務の形ながら法政大学野球部監督としての活動に主軸を移しておられたことで、自然の流れのように進学されたようです。関根氏の旧制日大三中から法政大学へ進学された頃は太平洋戦争の真只中で練習もままならない時期だったようですが、予科(現在の教養課程)の時に終戦を迎え、東京六大学リーグもようやく再開されることになります。

関根投手は3年生時の1948年秋のリーグ戦で法大を戦後初の優勝に導くなど、エースとして活躍されリーグ戦通算で41勝(30敗)の成績をあげておられます。投手としてだけでなく、打者としても非凡な成績を残されました。そして法大でバッテリーを組んだのは旧制日大三中の同期だった根本捕手でした。根本捕手は当初日大三中から日本大学に進学されたのですが、事情があって退部された後、藤田省三監督との縁で法大へ移られたようです。

娯楽の少なかった終戦直後、東京六大学野球は絶大な人気を誇っていたようで、早稲田・慶應には及ばないものの、法大のエースである関根投手にも応援してくれるファンがおられたようです。部屋を提供してくれたり、いつでも食事のできる場を提供してくれたりと、「学生が野球をやって人間を磨いている」と純粋に応援してくれる篤志家のような方がおられた時代だったと後に述懐しておられます。

そんな関根投手の学生時代のハイライトは、4年生の秋に来日したアメリカ3Aのサンフランシスコ・シールズというチームとの対戦でした。1949年秋に来日したシールズは日本のプロ野球の読売ジャイアンツ・全東軍・全西軍と各1試合、全日本と3試合、計6試合を戦って6戦全勝。3Aのチーム相手にこの成績、これが当時の日本のプロ野球界の実力でした。

そして最後に行なわれたのが東京六大学選抜とのエキシビジョンマッチ。関根投手が先発し、延長13回を完投し2-4の惜敗。戦争が終わって4年しかたっていない時期に、アメリカ相手に奮闘された関根投手の評価は大いに高まったようです。

当時日本では8球団1リーグ方式でのプロの興行は行なわれていましたが、社会全体で野球で生活できるという雰囲気は薄く、東京六大学の選手は社会人を目指すのが常で、関根氏も八幡製鉄所への就職が内定しておられたようです。しかし社会が落ち着き、野球人気が高まってくるとプロ野球に新規参入を希望する会社も増えてきました。

こうして1950年にセリーグ8球団、パリーグ7球団の二リーグ制がスタートした訳ですが、この時に新規参入した一社が関西を拠点とする近鉄でした。そしてこの初代監督に迎えられたのが法大監督であった藤田省三氏。運命の糸に導かれるように関根氏も新生近鉄パールスに投手として入団し、縁もゆかりもない関西でプロ野球人生の第一歩を踏み出されました。余談ですが2年後の1952年には根本陸夫捕手も実業団の川崎コロンビアから近鉄パールスに入団されています。

ドラフト制度の始まるはるか前、まだプロ野球の揺籃期、各チームの戦力バランスは著しく片寄っており、新生近鉄パールスはなかなか勝てない弱小チームでした。そんな中で入団2年目の1951年、2年後の1953年には開幕投手も務め、投手としてマウンドに立った8年間のうち6回規定投球回数を超え、二桁勝利も三度、1957年に本格的に外野手に転向されるまでの間に通算65勝94敗、防御率3.43という成績を残し、チームのエース格として活躍されました。

投手に限界を感じ、自らの希望で野手に転向後、近鉄パールス(チーム名は1959年にバッファロー、1962年以降バファローズに改称)に在籍された8年間のうち規定打席に6回到達し、打撃ベストテンに4回入るなど、チームの主軸バッターとして活躍されました。ただ身体が小柄(公称173cm、体重65㎏)でもあった為、ホームランの本数こそ二桁本塁打のシーズンは一度だけでしたが、コンスタントにヒットの打てる強肩の外野手として、通算安打1139本、打率.279、424打点、59本塁打の記録を残されています。

投打の規定数に共に複数回以上到達した選手は二リーグ分立後では関根氏が初めてですし、投手(1回)・野手(4回)としてオールスターゲームに出場している選手も、後に大谷翔平選手が出現するまでは関根氏だけの記録でした。投手として50勝以上、打者として1000本以上の安打を打った選手も二リーグ分立後は関根氏だけの記録(一リーグ時代も含めると中日ドラゴンズの西沢道夫氏が達成)であり、元祖二刀流とも言われる所以です。

関根選手は現役の最終年の1965年(昭和40年)を読売ジャイアンツの一員として過ごされました。既に38歳という年齢でしたが、川上監督を除くとコーチも含めて最高齢、東京六大学出身の扱いにくい選手の抑え役として呼ばれたのだろう、との本人談ですが、この年ジャイアンツは日本一(歴史に残るV9の一年目)となっており、関根氏にとっては生涯唯一の優勝であり、素直に嬉しかったと語っておられます。

現役引退後は野球解説者、評論家としての活動が最も長く携わられた仕事でした。その間に何度かコーチ、監督の仕事を引き受けておられます。一度目は盟友根本陸夫氏が監督時代の広島東洋カープの一軍打撃コーチ(ヘッド格)。山本浩二選手や衣笠祥雄選手ら、当時の若手選手を鍛え、後の広島黄金時代の礎を築いておられます。中でも衣笠祥雄選手に対する厳しい指導は今も語り草になっています。(ご興味があれば第94回「野球に誠実に向き合った男の一生」をご参照下さい)

二度目は1975年の読売ジャイアンツでのヘッドコーチ就任。長嶋茂雄監督の就任1年目でしたが、前年に引退された長嶋選手の抜けた穴は埋めようもなく、全球団に負け越しての球団史上初の最下位。ヘッドコーチの関根氏は責任を感じて辞任を申し出られたようですが、翌年球団は二軍監督のポストを用意して処遇されています。

三度目・四度目は1982~1984年の横浜大洋ホエールズ、1987~1989年ヤクルト・スワローズで監督を務めておられます。横浜大洋ホエールズでは、球団上層部が読売ジャイアンツの監督を退任された長嶋茂雄氏の招聘に動いており、仮に長嶋監督が実現したら交代するという条件を飲んでの受諾だったと言われています。しかしこの話は長嶋氏が断わったことで実現しなかったと伝えられています。

逆にヤクルトスワローズの監督時代には、長嶋茂雄氏の息子である一茂氏の獲得を熱望する球団首脳部に対し、もし仮に長嶋茂雄氏のヤクルト監督が実現した場合に父子が同一チーム内でプレーすることの可否をご本人に確認したとのウワサが出るほど、日本球界の宝である長嶋茂雄氏(関根氏は常にミスターという呼称で呼んでおられます)へ深い敬愛の気持ちを持っておられました。余談ですが、この話はヤクルトスワローズ球団ではそれ程の熱を帯びることなく、立ち消えになったようです。

監督の仕事をチームを勝たせること、という観点だけから見ると関根氏は監督を務めた計6年間でAクラスは1983年大洋での一度(3位)だけですから、決して優れた指導者ではなかったのかもしれません。しかし厳しい練習を通じて選手を鍛え、試合への出場機会を与えることで更なる成長を促したということでは、選手の育成こそが関根氏の天職であったのかもしれません。

大洋時代の高木豊選手、屋鋪要選手、ヤクルト時代の池山隆寛選手、広沢克己選手、栗山英樹選手といった教え子の選手のことを語る関根氏は実に楽しそうであったと言われています。関根氏は監督・コーチの役割についてこんなことを語っておられます。

「監督・コーチというものは自分が知っていること、教わったことをそのまま教えたくなるものなの。だけど間違っていたら選手は壊れちゃう。フォームを一から直してやろうなんて、神様じゃないと出来ないよ。失敗したら選手と心中するぐらいの覚悟がないと、いじっては駄目なの。」

「選手がスランプになった時にこそ、“こうやってみな”とアドバイスするの。思いつきじゃダメだよ。その為には調子のいい時のフォームを頭の中にしっかり入れておかないと明確なことは言えないよ。選手をずっと見続けてやることが大切なんです。」この言葉にこそ関根流指導法の神髄が表われていると思いますし、選手を預かる指導者の覚悟が見てとれます。

関根氏は「僕の野球の原点は旧制日大三中と法大でやった野球です」と生前明言しておられました。それは恩師・藤田省三監督の目指した野球でもあったのかと思われます。プロ野球産業全体が大きく発展し、財政基盤も格段に厚くなり、一流選手の稼ぐ金額も桁違い大きくなった現代ですが、野球を通じて人間を磨き、野球の技術を追求する中に人間的な成長を追い求めた、関根氏の生きた時代に存在したような指導のあり方も、今のような時代であるからこそ、一考される価値があるのでは、という気がしています。

93歳の大往生を遂げられた関根潤三氏が、恩師・藤田省三氏、盟友根本陸夫氏も交え、黄泉の国でも熱く野球を語り合っておられることを願い、心よりご冥福をお祈りしたいと思います。

新型コロナウィルスの災禍が収束し、グラウンドで繰り広げられる真剣勝負の戦いに一喜一憂する日常が一日も早く戻ってくることを切に願いたいものです。 

(おわり)
2020/04/30

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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