稲尾和久氏~鉄腕が追い求めた「エースの品格」(2)【第129回】

稲尾和久氏~鉄腕が追い求めた「エースの品格」(2)【第129回】

今回も前回(第128回 『鉄腕が追い求めた「エースの品格」』(1))に引き続き、稲尾和久氏を記させていただきます。

前回は稲尾和久氏の現役時代、即ち稲尾投手時代を書かせていただきましたが、今回はまず稲尾投手のプレースタイル・投球術といったことから始めさせていただきます。

稲尾投手の投球の最大の特徴は完璧とも言える制球力にあったと言われています。
変化球による左右への揺さぶりと、中でも外角へのコントロールに優れ、技巧派投手の代表格と現役時代の最大のライバルのお一人であった野村克也氏は語っておられます。

その野村克也氏は稲尾投手のストレートについてこんなことも語っておられます。
「稲尾のストレートは当てられないほど速い訳じゃないのに凡打、三振させられてしまう。これは球質がホップしてくる球で、球速・球威が最後まで衰えず手元で伸びてくる、従って145㎞程度のストレートの体感速度をはるかに速く感じてしまう為、差し込まれてしまう。ピッチングはスピードよりもコントロールだという概念は稲尾から学ばせてもらった」と絶賛されています。

また稲尾投手は同じ投球フォームから直球・変化球を投げ分けることが出来たとも言われています。
得意な球種はシュートとスライダーだったそうで、スライダーを見せ球に本当の決め球はシュートだったそうですが、そのスライダーもある野球評論家は超一級と評されており、実に精度の高い球種を持った投手であったことが分かります。

このシュートとスライダーの他にフォークボールも習得されていたそうなのですが、これは生涯でただ一人の打者にだけ限定で投げる為に習得された球種だったとのことです。
その選手は、稲尾投手の一歳年上で大毎オリオンズの主砲であった榎本喜八選手です。

稲尾投手は榎本選手のことを「対戦した中で最強にして最高のバッター」と評しておられ、シュートもスライダーもきれいに打たれてしまうので、榎本選手を抑える為だけにフォークボールを使ったと語っておられます。榎本選手との勝負だけはスポーツではなく真剣勝負、まさに果し合いのようだった、とまで語っておられます。このフォークボールは榎本選手限定、1試合で5球だけ、と決めておられたそうです。

今の時代では一般的な投球術となっている、相手打者を打ち取る球(ウィニングショット)から遡って配球を組み立てる、いわゆる「逆算のピッチング」を編み出したのも稲尾投手と言われています。

稲尾投手ご自身がおっしゃるには、これを会得したのは1958年の日本シリーズ第6戦における長嶋茂雄選手との対決だったそうです。

そのシリーズで「長嶋選手はあたかも何も考えていないかのように、感性で身体が投球に反応している」と感じた稲尾投手は、自分も長嶋選手の身体の微妙な動きから瞬時に狙い球を読み取り、咄嗟に球種を変更するという作戦で押さえ込むことに成功されたようで、そのことが最後にどのボールで打ち取る為に、どういうボールを投げ込んでいくか、という「逆算のピッチング」につながったそうです。

まさに名人と名人の目に見えない戦いが、新しいイノベーションを生み出していることを教えてくれます。

頭を使い、技を駆使して数々のライバルと相まみえる中で自らの投球術を高めていかれた稲尾投手ですが、1969年限りで現役を引退(実働14年)されます。稲尾氏ご自身は通算300勝を目指したかったとも言われていますが、西鉄ライオンズを舞台に起こった「黒い霧事件」の発覚でチームを取り囲む状況は悪化の一途をたどり、監督を引き受けざるを得ない状況の中、32歳の若さで1970年から監督に就任されました。

「黒い霧事件」で何人もの主力選手を失い戦力も整わない中、就任からの3年間は大幅負け越しによる3年連続の最下位。観客の減少と共に経営状況も悪化し、ついに1972年のシーズン終了後、球団は西日本鉄道から福岡野球株式会社に売却(チーム名の太平洋クラブライオンズは、ネーミングライツによる冠スポンサー)されます。

太平洋クラブライオンズとなってからは、選手層の薄い中、積極的に起用を続けてきた東尾修投手、加藤初投手が育ち、1973~1974年の二年間は成績もかなり改善し、両年とも4位にまで上がってきました。

しかし1974年のシーズンオフに持ち上がった東尾修投手、加藤初投手のどちらかをトレードに出す、という球団方針に反対を唱えたところ、アッサリ解任の憂き目にあい、稲尾氏の生まれ育ったチームでの監督生活は5年で幕を閉じてしまいました。

その後野球解説者の仕事をされたり、1978~1980年の3年間、中利夫監督率いる中日ドラゴンズで一軍投手コーチを務められましたが、1984年にロッテオリオンズから監督へのオファーが入り、再び監督としての道を歩まれることとなります。

後に分かった話では、埼玉県所沢市に移転した古巣ライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡に移転させるという条件で監督就任の要請が行なわれていたそうです。

しかしロッテの福岡移転は実現しませんでした。
ロッテの福岡への移転という話は、ダイエーがロッテオリオンズを買収することで実施される予定だったようですが、合意寸前でロッテが球団売却を取り止め、球団保有を継続して本拠地を移転させる方向へ方針を転換したことで実現しなかったものです。

余談ですが、ダイエーはほぼ同じ時期に売却の検討を開始した南海ホークスを買収し、福岡での球団経営が実現しています。(その後、更に経営権の譲渡が行なわれ、現福岡ソフトバンクホークスが誕生しています)

結局稲尾監督がロッテオリオンズの指揮をとったのは1984~1986年の3年間でした。

「自主管理野球」を掲げた3年間の成績は、2位→2位→4位となっています。
稲尾監督の3年間の中で、チームの主砲であった落合博満選手が1985年、1986年に二度目・三度目の三冠王を獲得し、1985年には肘にメスをいれた村田兆治投手が劇的な復活(17勝5敗)を遂げ、毎週日曜日に登板する「サンデー兆治」として大きな話題となりました。

稲尾和久氏は現役時代、今の時代からすれば想像を絶する、考えられないようなイニング数を投げ、そのことが結果として投手寿命を縮めてしまったのかもしれません。

あの当時、各チームのエースと呼ばれた人たちが強いられた、無理を無理とも思わせないような起用方法の犠牲だったのかもしれません。

組織の為に自らに課された役割に背を向けず、淡々と立ち向かった当時の日本人の姿を象徴する存在だったようにも思えます。そのことが超人的な活躍と相まって、日本人の共感を呼んだようにも思えます。

二度にわたる監督としての時代も、決して恵まれた環境が与えられた方ではなかったように思われます。
前述した村田兆治投手の劇的復活へのサポートは、自らの登板過多から得られた教訓が生かされたようにも思えます。

また稲尾監督のもとで二度の三冠王に輝いた落合博満氏からは良き理解者として慕われており、後に稲尾氏も選考委員の一人であった正力松太郎賞を、中日ドラゴンズ監督としてチームを53年ぶりの日本一に導いた功績で受賞された際には、会見で稲尾氏について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合いました。稲尾さんが教えてくれた打者には分からない投手心理は私の財産となっています」という旨のコメントを残され、深い敬愛の情を示されています。

村田兆治氏、落合博満氏との間で生まれた信頼関係は、まさに自らがロッテ監督時代に掲げた「自主管理野球」の理念を証明しているように思われます。

しかしこのやり方が全ての選手に有効かどうかは分かりません。
ただ、能力が高く自主管理のできる選手にとっては、これ程ありがたい監督はいなかったものと思われます。

プロ集団を率いる指導者のひとつのあるべき形を示されていたようにも思われます。

稲尾和久氏が亡くなられて4年半が経過した2012年5月1日に、稲尾氏が現役時代並びに西鉄ライオンズの監督時代につけておられた背番号「24」が埼玉西武ライオンズの永久欠番となることが発表されました。

そして7月1日には「ライオンズ・クラシック2012 稲尾和久生誕75周年永久欠番メモリアルゲーム~背番号「24」の記憶~」と銘打ち、監督・コーチ・選手の全員が背番号24をつけての試合が行なわれました。
その3日後の7月4日には稲尾和久氏が現役時代を過ごした福岡でも同様の試みがなされました。

これは、メジャーリーグで黒人選手として初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソン選手を称え、全球団の全選手が背番号42をつけて毎年4月15日の試合で行なわれている「ジャッキー・ロビンソンデイ」にちなんで行なわれたものですが、日本でこうした催しが行なわれた初めての事例です。

実はライオンズが埼玉県所沢市に移転した1979年以降、西武ライオンズの球団の歴史からは西鉄時代の歴史は抹殺されていました。

しかし後藤高志・現オーナーの就任後見直しが行なわれ、今は1950年の西鉄クリッパース(西鉄ライオンズになる前のチーム名)の時代からすべてが球団史に掲げられ、優勝をはじめとするすべての記録も西鉄ライオンズの時代からのものが含まれています。

埼玉西武ライオンズ70年の歴史で、永久欠番とされているのは現時点では稲尾和久氏の24番だけです。

こうして歴史に光をあて、レジェンドの功績を称えていただけることは、一野球ファンとしても大きな喜びですし、こういう姿勢でチーム経営に当たっていただいている埼玉西武ライオンズ、並びに経営母体としての西武鉄道、西武ホールディングスにも尊敬の念を抱かざるを得ません。

これこそまさに日本のプロ野球が文化として社会に深く根を下ろし始めていることの証しではないかと思われます。

2020年のプロ野球の開幕がどうなるのか、全く見通せない状況です。東京オリンピックも1年をメドに延期されることが発表されましたが、世界に蔓延する新型コロナウィルスが終息し、再び球場に人々が集い、大声で声援を送る日常が一刻も早く戻ってくることを願いたいものです。

(おわり)
2020/04/06

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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