稲尾和久氏~鉄腕が追い求めた「エースの品格」(1)【第128回】

稲尾和久氏~鉄腕が追い求めた「エースの品格」(1)【第128回】

2020年のプロ野球は本来なら既に開幕を迎え、今頃は熱戦が繰り広げられているはずでしたが、新型コロナウィルスの影響で開幕は4月24日(金)まで延期されることが発表されています。

ただ現時点の状況では、この4月24日の開幕も予断を許さない状況ですので、今回は少し趣きを変え、日本のプロ野球の発展期に活躍されたレジェンドを取りあげさせていただきます。

そのレジェンドは、かつて「神様・仏様・稲尾様」とまで言われた元西鉄ライオンズの投手であった稲尾和久氏です。今回・次回と二回にわたってお届けさせていただきます。

稲尾氏は1937年(昭和12年)6月生まれ、大分県別府市のご出身で、お亡くなりになられた2007年11月に享年70歳でした。7人兄弟の末っ子として、漁師の父親のもとで幼い頃から櫓を漕ぎ、海に出られていたようです。

後年稲尾氏はこの時代を振り返り「薄い板一枚を隔てて下は海。いつ命を落とすか分からない毎日の中で、おかげでマウンドで動じない度胸がついた」と語られると共に、バランス感覚も養われたと述べておられます。

中学時代には捕手をされていた稲尾氏は、大分県立別府緑丘高等学校入学後、1年生の秋に投手に転向し、2年生の夏にはエースとなられましたが、甲子園出場は果たせず、全国的には全く無名の存在のまま、1956年地元九州の球団であった西鉄ライオンズに入団されました。

地元の球団であること、高校の4年先輩がチームにおられた(河村久文投手)ことが入団の決め手だったようです。

入団当初は全く注目される選手ではなく、当時の三原脩監督も「稲尾は打撃投手として獲得した」と公言される程度の存在でした。

事実入団1年目の春のキャンプから、当時の主力打者であった中西太選手・豊田泰光選手・高倉照幸選手らの打撃投手を務め、これら主力打者からは「手動式練習機」と呼ばれる程、黙々と投げ込まれたようです。

当時はストライクばかり投げ続けると打者が打ち疲れてしまう為、4球に1球はボール球を投げるよう指示されていたそうです。高校を卒業したばかりの若い稲尾投手は、このボール球とする1球をストライクゾーンのコーナーぎりぎりを狙って投げる練習を繰り返して制球力を磨きあげたようです。

キャンプの後半になると主力打者が稲尾投手に打ち取られる場面が増え始め、オープン戦を経て高卒1年目から開幕の一軍メンバーに選ばれました。

大映スターズとの開幕戦で11-0の大量リードで迎えた6回表から、高校の先輩でもある河村久文投手の後を継いで2番手としてプロデビュー、4回を無失点に抑えました。

その後もしばらくは敗戦処理などで登板を重ね、投手陣の故障などから登板機会が増え始めると、最終的にはこの年61試合に登板し、262.1イニングを投げて21勝6敗、防御率1.06という好成績で最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得されています。

稲尾投手の高卒初年度の投球回数、防御率は、現代の感覚では信じられないような数字なのですが、2年目・3年目となった1957年・1958年の記録は想像を絶するような数字が並んでいます。

登板試合数 投球回 勝敗 防御率 奪三振
1957年 68 373.2 35勝6敗 1.37 288
1958年 72 373.0 33勝10敗 1.42 334

当時と今とでは野球の戦術が大きく変わりましたし、投手の起用方法が全く違いますので、数字としての記録を単純に見比べることは出来ません。

稲尾投手入団後の3年間、西鉄ライオンズは読売ジャイアンツを3年連続で破っての日本一に輝き、稲尾投手ご自身は1957年・1958年の二年連続でリーグMVPにも選出されています。入団3年で押しも押されもしない日本を代表する投手としての立場を確固たるものとされた訳です。

特に1958年の読売ジャイアンツと戦った日本シリーズは、ずっと後の世にまで語り継がれる名勝負となりました。

後楽園球場での第1戦を稲尾投手で落とし、続く第2戦も敗戦。福岡の平和台球場に移動しての第3戦、再び稲尾投手を先発に立てるも敗れ、読売ジャイアンツに王手がかかりました。

降雨による順延で中一日をはさんだ第4戦、西鉄ライオンズの三原監督は三たび稲尾投手を先発に起用します。

この試合をモノにしてシリーズ初勝利をあげると、翌日の第5戦でも4回表から稲尾投手がロングリリーフ、最後はシリーズ初となるサヨナラ本塁打を自らのバットで放ち勝利投手となります。

そして舞台を再び後楽園球場に移しての第6戦・第7戦では二日連続での稲尾投手の完投勝利で西鉄ライオンズが逆転での日本一、日本シリーズ三連覇を成し遂げたのでした。

稲尾投手は7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投。うち5試合に先発して4完投。優勝を伝える福岡の地元新聞に踊った見出しが「神様・仏様・稲尾様」でした。

そしてこの第7戦は私自身にとっても忘れられないシーンがあります。9回裏を迎えて0-6で完封負け目前となった読売ジャイアンツ、ルーキー長嶋茂雄選手のランニングホームランで一矢を報いたのですが、この年ルーキーながら本塁打王と打点王の二冠に輝いた長嶋選手の最後のランニングホームランをTVで観て、まだ小学校3年生の田舎の子供であった私は、プロ野球の新しい時代が今まさに始まろうとしていると感じたことを鮮明に覚えています。

稲尾投手はルーキーから3年間のすさまじいまでの活躍の後も、入団4年目から8年目(1959~1963)の5年間を、すべて毎年20勝以上、5年間トータル145勝70敗という成績で走り抜けられました。

中でも超人的な成績が1961年です。年間78試合登板、404イニングを投げて42勝14敗、防御率1.69、353奪三振、25完投、7完封勝ちという成績でしたが、現代プロ野球の感覚では全く有り得ない成績です。

ちなみにですが、この年の78試合登板の内訳を見ると先発が30試合、リリーフが48試合となっています。この当時は中3日で休養十分という風潮だったそうで、この年の稲尾投手は中3日以上空けて登板した試合はわずか18試合、連投した試合が3連投4回を含め26試合あったようです。

先発・中継ぎ・抑えという現代野球の分業の役割を、まさに一人でこなしておられたということだと思われます。

さすがの稲尾投手もこれだけの酷使の中でプロ入り7年目あたりから右肘が痛み始めます。
それでもこの年は25勝、翌年も28勝はされたのですが、9年目のオープン戦で肩に激痛が走り、結局この年(1964年)プロ入り後初めての未勝利(0勝2敗)に終わってしまいました。

その後懸命のリハビリにより再び投げられるようにはなられたのですが、もうかつての球威は戻らなかったようです。

0勝に終わった1964年の翌年から引退までの5年間で、稲尾投手は42勝(43敗)をあげられました。

くしくも1961年の1年間であげた42勝と同数ですが、このことについて稲尾投手ご自身がこんなことを語っておられます。

「順風満帆の人生など有り得ないし、仮にあったとしても挫折知らずで凪続きの航路が本当に幸せかどうか。あの挫折で私は人の痛みを知ることが出来ました。鉄腕のままでいたら私はおかしくなっていたかもしれません。1961年の白星は勢いに乗って無我夢中で投げているうちについてきました。それに対し1965年以降、引退するまでの白星はもがきながら一つずつ、5年かけて掴み取ったものです。だから自分の中では、最後の42勝が挫折前の234勝に匹敵する宝物になっています」。

稲尾和久氏は後年「私の投手人生は8年で終わった」と述懐されています。
インタビューの中でこの言葉を引き出した記者は、そこに恨みがましい響きはなかったと記しておられます。

野球は一人でやるものじゃない、お互いの信頼関係の上にチームは成り立っている、そのことの重要性に気づいてからは「エースの品格」を自分自身のテーマに置くようになったと語っておられます。

その思いは「ブラッシュボール(故意に打者に当てる球)を投げない」「次の投手にマウンドを譲る時は、自分の投球で掘れた部分を丁寧にならし、ロージンバックを一定の位置に戻す」といった行動につながったようです。

稲尾氏は「エースというのはトランプで切り札の意味。20勝する人という意味ではなく、チームが一番苦しい時に勝てる人のことを言うのだと思います。単に勝利数ではなく、相撲の横綱のように品格が求められます。さすがエースと呼ばれる人は違うな、と周りの人が思うような人間性を伴なって初めて、エースと言えるのではないでしょうか」と述べておられます。

西鉄ライオンズ全盛時の同僚でもありチームの主力打者でもあった豊田泰光選手は1963年シーズンより国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)に移籍されましたが、そこで同僚となった金田正一投手と稲尾投手のことについて後年こんなことを語っておられます。

「カネやんはチームより自分本位。これを貫き通したことが後の大記録につながったと思います。勝てそうな状況になると『よっしゃワシが行くで』となる。私は西鉄で誰も行きたがらないしんどい場面になると『私の出番でしょう』と出ていく稲尾和久の滅私奉公ぶりを知っていますから、同じエースでもずいぶん違うもんだなと認識を新たにしました。まあカネやんとしては自分の数字がすべてということだったんでしょうね」。
 
この豊田泰光氏の述懐に、栄光と挫折を経て、最後の5年間に掴み取った42勝を宝物として大切にする稲尾和久氏の生き方が、にじみ出ているように感じられます。

次回は稲尾投手のプレースタイル、現役引退後の指導者時代に触れてみます。
稲尾和久氏~鉄腕が追い求めた「エースの品格」(2)【第129回】につづく 

2020/03/30

「福山義人のプロ野球に学ぶ組織論」一覧に戻る

筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

※福山義人氏への講演依頼はこちらから