野村克也氏~男子の本懐を遂げて巨星逝く!【第126回】

野村克也氏~男子の本懐を遂げて巨星逝く!【第126回】

2020年2月11日、日本プロ野球界のレジェンド・野村克也氏の訃報が報じられました。

キャンプ地に掲げられている各球団の球団旗は半旗として掲げられ、野村氏が指導者として関わったゆかりの球団では喪章をつけての練習も行なわれたようです。亡くなられた翌日のスポーツ新聞はほぼ全紙が追悼記事で埋め尽くされ、今更ながら残された足跡の大きさとその影響力の大きさを思い知らされました。という訳で今回は当コラムでも野村克也氏を偲び、その偉大な足跡を振り返らせていただきます。

野村克也氏は1935年6月生まれ、京都府京丹後市(旧竹野郡網野町)のご出身です。お亡くなりになられた本年2月11日に享年84歳でした。京都府立峰山高校のご出身ですが、チームは野村克也氏在学中でも京都府予選の2回戦まで進んだのが最高成績という弱小チームであり、甲子園は夢のまた夢という中で、野村氏も全くの無名選手に他なりませんでした。

卒業後の進路を模索する中で、野球部の顧問の先生がプロ球団の監督に手当たり次第に推薦状を送ってくれたところ、当時南海ホークスの鶴岡一人監督(当時は山本姓)だけが返事をくれたようで、その縁もあって1954年(昭和29年)に南海ホークスに契約金ゼロのテスト生、捕手として入団されました。

入団1年目終了時点では戦力外通告の瀬戸際にも立たされたようですが、1年目・2年目の主に二軍での鍛錬が実を結び、3年目の1956年より正捕手に定着され、4年目には初の本塁打王のタイトルも獲得されています。

結局、通算で南海ホークスに24年、ロッテオリオンズに1年、西武ライオンズに2年在籍され、現役生活27年間で3017試合(歴代2位、後に谷繁元信氏に抜かれるまで1位)に出場されています。

この間、11970回打席に立ち(歴代1位)、生涯成績として2901安打(歴代2位)、打率.277、657本塁打(歴代2位)、1988打点(歴代2位)という記録を残すと共に、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回の打撃タイトルも獲得されています。

ちなみに2リーグ制となった1950年以降、捕手が打撃三冠のタイトルを獲得した例が22回ありますが、うち17回は野村克也氏の記録です。(他は田淵幸一氏、古田敦也氏、阿部慎之助氏、森友哉選手)

また1965年には史上2人目の三冠王にも輝いておられますが、これらの記録がポジションの中で最も負担の大きい捕手という立場で成し遂げられたことが、更に価値を高めていることは間違いありません。

野村克也氏は南海ホークス時代の1968年からはコーチも兼任されることになりましたが、1970年には監督を兼任し、南海を退団する1977年まで8年間をプレイング・マネジャーとして過ごされています。兼任監督に就任されたのは34歳の時であり、ドン・ブレイザー氏をヘッドコーチに据え、「4番打者」「捕手」「監督」の三つの重責をひとりで担われました。

南海ホークス退団後は「生涯一捕手」を自ら標榜し、ロッテオリオンズ、西武ライオンズで計3年間の選手生活を送り、45歳で現役を引退されました。その後は野球解説者・野球評論家として独自のスタイルを確立し、配球の読みや打者心理・投手心理を交えた解説が評判となりました。

バックネット裏から野球を観る期間を経た後、1990年のヤクルトスワローズの監督就任を機に、野村克也氏の野球人生の第二幕が始まります。

ヤクルトスワローズで9年、阪神タイガースで3年、東北楽天ゴールデンイーグルスで4年、阪神と楽天の間では、社会人野球チームのシダックス野球部監督兼ゼネラルマネジャーとしても3年間の指導者生活を送られています。

阪神と楽天ではチームの再建時期に指揮をされましたので優勝は出来ませんでしたが、土台が整った後、両チームとも故星野仙一監督のもとでリーグ優勝(楽天は日本一も達成)を成し遂げています。最初のヤクルトスワローズでは、土台づくりとしての選手の育成並びに戦術の浸透を図り、ヤクルトスワローズの黄金期を築き上げられました。(9年間の在任中リーグ優勝4回、うち3回は日本一)

選手兼監督であったプレイング・マネジャー時代の重複期間も含めて、野村克也氏は監督としても3204試合の指揮をとられましたが、現役選手時代の出場試合数、監督としての試合数がともに3000試合を超えているのは日本のプロ野球史上お一人だけです。プロ野球人として一貫しておられたのは、常に知恵を絞り、考えて野球をするという姿勢であったと思われます。

弱者が強者を打ち負かす為の様々な工夫がなされ、戦術が生み出されましたが、それがプロ野球界全体の発展にも寄与したことは間違いありません。

王者阪急ブレーブスの盗塁王・福本豊選手を封じ込める為に編み出された投手のクィック・モーション、阪神タイガースから南海ホークスに移籍してきた江夏豊投手に対して、「革命を起こそう」と説き伏せて抑え投手に仕立て上げ、後の先発・中継ぎ・抑えの投手分業制の日本での道筋をつけたこと、データを駆使したID野球etc、野村氏の知恵と共に生み出され、今もその痕跡を残すものも少なくありません。

今回の訃報を受け、色々な方が色々な角度から野村克也氏を語っておられますが、私自身は野村克也氏の選手を見抜く目、その気にさせる術、そして結果を出させることで自信を持たせ、再び輝く存在に仕立て上げる「野村再生工場」と言われた人材活用術にとても強く惹かれています。

そもそも野村再生工場という言い方がされるようになったのは、野村克也氏が南海ホークスのプレイング・マネジャーであった頃、読売ジャイアンツから移籍してきた山内新一投手、松原明夫投手(後に広島カープに移籍し福士敬章に登録名を変更)、東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)から移籍してきた江本孟紀(タケノリ)投手を二桁勝てるローテーション投手に仕立て上げたことから呼ばれるようになったようです。

山内新一投手は読売ジャイアンツでも中継ぎ中心に4年間の在籍期間中に14勝をあげている投手でしたが、松原投手、江本投手は移籍時点では0勝の投手でした。山内投手は南海ホークスに11年間在籍し、実に二桁勝利を8回記録(うち2回は20勝超)し、生涯143勝をあげるまでの投手になっておられます。江本投手も南海ホークスに在籍した4年間はすべて二桁勝利をあげ、後に移籍した阪神タイガースでも6年間で61勝を挙げるなど、エース級の投手として活躍されるまでになられました。

他にもダイエーホークスで通算2勝しかあげていなかった田畑一也投手が、野村監督率いるヤクルトスワローズに移籍したとたんに12勝、翌年も15勝をあげたり、広島カープを戦力外となった小早川毅彦選手が開幕戦の対巨人戦で3年連続開幕戦完封勝利の斎藤雅樹投手から3打席連続本塁打を放つという衝撃的な再出発を遂げられたりといった、何がそうさせるのかと思いたくなるような事例がいくつも起こっています。

3チーム目の監督となられた東北楽天ゴールデンイーグルスでも、中日・オリックスと渡り歩いてきた山崎武司選手が野村監督のもとでホームラン王、打点王として復活を遂げられましたし、中日ドラゴンズで出番に恵まれなかった土谷鉄平選手は楽天移籍後、登録名「鉄平」として2009年には首位打者にまでなっておられます。

これらの事例は指導者としての野村克也氏が、一人一人の選手の技術力のみならず性格まで含めた適性をいかに的確に見抜いておられたかの証拠だと思われます。野村克也氏は再生工場と言われた自らの選手起用の本質を「自信を回復させること」と語っておられます。

自分自身に対して否定的かつネガティブな捉え方をしている選手に対して、優れているところはどこかを指摘し、更に良くなる為には何をすべきかの指導を重ね、半信半疑ながらも結果を出せた選手が自信を持つことで更なる飛躍をしていく、といういいサイクルに持ち込むことを指導方法の基本に据えておられたのだと思われます。

野村克也氏は「人材育成とは?」と問われた際に、僕は人材育成というのは「見つける」「育てる」「生かす」ことだと思っています、と答えておられます。野村再生工場での選手活用は、まさに一人一人の選手を観察する中で優れたポイントを見い出し、その優れたポイントを試合で活用できるレベルにまで引き上げ(育てる)、あとは試合でいい結果を出させてやることで自信を持たせる、この繰り返しをやっておられたのだと思われます。

また併せて、チームづくりのポイントを意識改革に置いていたとも話されていますが、その為に選手には考えることを求め続けたとも語っておられます。まもなく開幕する2020年シーズン、各チームを指揮する12人の監督のうち、実に6名の方が野村克也氏の監督時代に選手として薫陶を受けた方々です。

具体的には、ヤクルトスワローズ時代の教え子が西武・辻発彦監督、楽天・三木肇監督、日本ハム・栗山英樹監督、ヤクルト・高津臣吾監督、そして阪神タイガース時代の教え子が阪神・矢野燿大監督、中日・与田剛監督(与田監督は現役最後の年となった2000年、阪神タイガースに所属)の6人の方々です。更にオリンピックでメダル獲得を目指す侍ジャパンの稲葉篤紀監督は野村克也氏の教え子そのものです。

こうしてみると、亡くなられた野村克也氏は残された人材を通して日本のプロ野球界に大きな痕跡を残されていることがよく分かります。人を残すことこそ男子一生の仕事とするなら、まさに男子の本懐を遂げられての黄泉への旅立ちであったのでは、と思えてきます。

野村克也氏のご冥福を心よりお祈りすると共に、直接の薫陶を受けた6人の監督をはじめ、プロ野球に携わっておられる皆さんのご努力で、2020年のシーズンが心を踊らせるワクワクとした1年となることを心より願っています。

(おわり)
2020/02/24

「福山義人のプロ野球に学ぶ組織論」一覧に戻る

筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

※福山義人氏への講演依頼はこちらから