高木守道氏~二代目ミスタードラゴンズを偲ぶ!【第125回】

高木守道氏~二代目ミスタードラゴンズを偲ぶ!【第125回】

2020年の年が明けてまもなく、1月17日に一人のプロ野球人の訃報が飛び込んできました。
1月12日にはラジオの番組にも出演されていたようで、急性心不全による本当に急なご逝去だったようです。

その方のお名前は高木守道氏。
21年間の現役生活、二度の監督生活もずっと中日ドラゴンズ一筋で生き抜いた方でした。

現役時代は走攻守のいずれにも優れ、バックトスをはじめとする華麗な守備力と長打も打てるリードオフマンとして、その名を轟かせた方です。

監督時代には、シーズン最終戦を同率首位同士で迎えた1994年の「10・8」決戦で、読売ジャイアンツの長嶋監督に敗れはしたものの、プロ野球ファンの心に今も深く刻み込まれている名勝負を演じた一方の将でした。

そんな在りし日を偲び、今回は高木守道氏を取りあげさせていただきます。

高木守道氏は1941年7月生まれ、岐阜県岐阜市のご出身で、右投右打の内野手、お亡くなりになった時点で享年78歳でした。

岐阜県立岐阜商業高校時代には1年生の夏と3年生の春に二塁手として二度甲子園に出場されています。
特に3年生の春の選抜大会ではチームは決勝まで進まれましたが、中京商業高校に2-3で惜敗。
3年生の最後の夏は県予選の決勝で敗れ、高校生活を終えられています。

当時はまだドラフト制度の始まる前で、夏の甲子園大会終了後にプロからの誘いがなく、いったんは早稲田大学への進学を予定されていたそうですが、その後地元の中日ドラゴンズからオファーが入り、入団されています。

1960年の入団1年目、5月初旬の大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)戦で代走としてプロ初出場、初盗塁を記録。その試合で後にまわってきた初打席で初本塁打を記録される等、プロとして順調な第一歩を記されました。

入団4年目の1963年からは二塁手のレギュラーに定着、規定打席にも到達し、50盗塁で初めての盗塁王のタイトルも獲得されています。

その後も1965年・1973年と計三度の盗塁王に輝くと共に、1969年には24本塁打を打つなど、生涯通算236本塁打を記録した、長打力と脚力を兼ね備えたリードオフマンとして長く活躍されました。

ちなみにですが、高木選手が規定打席に到達した15シーズン中、二桁のホームランが打てなかったのはわずか三回だけであり、プロ野球ファンの間では「打てる名手」のイメージが定着していたように思います。

高木守道選手の現役時代は、あの強かった読売ジャイアンツのV9時代とそのまま重なっています。
長嶋茂雄選手、王貞治選手といった選手たちと切磋琢磨して戦い、技を磨き合った間柄です。

こんな時期に現役時代が重なったことは一見不運だったのかもしれませんが、高木選手はこんな時代の中を生き抜きながら、現役時代二塁手として7回セリーグのベストナインに選ばれています。(ちなみに二塁手のベストナイン7回は今もセリーグ最多記録です)

そんな強い読売ジャイアンツのV10を阻止したのが中日ドラゴンズでした。

ニッポン放送報道部副部長の畑中秀哉氏が自らのコラム「報道部畑中デスクの独り言(第170回)」に書かれた内容によると、1974年10月11日、神宮球場のヤクルト-中日戦は、優勝へのマジック3で臨んだ中日ドラゴンズが、もしこの一戦で敗れると残り4試合(大洋戦2試合、巨人戦2試合)で、猛追する巨人との直接対決に持ち込まれる可能性があり、なんとしてでも勝たねばならない試合だったようです。

しかし試合は9回表を迎えて2-3の1点ビハインド、9回表二死三塁の状況で高木選手が三遊間をゴロで破るタイムリーヒットを放って同点。
結局そのまま引き分けてマジックを減らし、その後の大洋戦に連勝して優勝、20年ぶりのリーグ制覇を成し遂げたのでした。

最終成績は、中日ドラゴンズ70勝49敗11分、読売ジャイアンツは71勝50敗9分、わずか1厘差でした。
読売ジャイアンツはわずか1厘でV10という偉業を逃したのでした。

この優勝には後日談があります。
大洋に2連勝して優勝を決めた中日ドラゴンズでしたが、その後に後楽園球場での読売ジャイアンツとの最終戦ダブルヘッダーが残されていました。

読売ジャイアンツはこの最終戦を長嶋茂雄選手の引退試合として準備していたのですが、雨で一日延びた為、中日ドラゴンズの優勝パレードと重なってしまったようです。

中日ドラゴンズ球団はやむなくレギュラー選手には名古屋での優勝セレモニー出席を命じ、後楽園球場での試合には大島康徳選手や藤波行雄選手といった若手と準レギュラー級の選手で試合に臨むことを決めたのですが、この通達に高木選手は「偉大なる選手になんて失礼なことを」と大いに憤慨し、「自分だけでも巨人戦に出場させて欲しい」と猛烈に抗議をされたそうです。

しかしその願いも聞き入れられず、結局優勝セレモニーには出席されたのですが、高木選手はのちに長嶋選手に直接電話をし、謝罪をされたそうです。(「月刊Dragons」には星野仙一投手も同様に電話で謝罪をしたとの記述があるそうです)

高木守道氏は1980年のシーズン終了をもって現役を引退されました。
通算2282試合の出場で、打率.272、236ホームラン、813打点という生涯成績でした。

現役引退後は翌年から一軍作戦守備コーチ(1981~1983)、二軍監督(1984~1985)、一軍守備コーチ(1986年)を務め、1986年には山内一弘監督の途中休養を受け、同年の7月6日からシーズン終了まで代理監督も務めておられます。

1987年から5年間の解説者時代を経て、1992~1995年、2012~2013年の二度にわたり中日ドラゴンズの監督を務められました。

元々口数が少なく、穏和なイメージのある高木守道氏ですが、自身のプレースタイルや野球理論には確固たる信念を持たれており、これを否定されたりした場合には、たとえ相手が先輩や監督・コーチであっても反抗する骨太さを持っておられたようです。

月刊ドラゴンズの記者の中では「怒った時は星野さんよりも怖い」との評もあるようで、高木氏のこうした性格は「瞬間湯沸かし器」と揶揄されることもあったようです。

しかし高木監督のもとで選手としてプレーをされた山本昌氏、今中慎二氏は異口同音に、選手の立場からすればとてもやりやすい監督だったと語っておられます。

投手である両氏とも打たれたことで文句を言われたり叱責を受けたことはなかったそうで、山本氏は高木監督を評して「僕を初めて大人扱いしてくれた監督」だったと語っておられます。

また今中氏も20代前半の頃から練習や調整はすべて任せてもらえたそうですし、併せて高木監督という人は自分が間違っていたと分かった時は選手にも頭を下げて謝罪をされる、そんな人だったようです。

高木守道氏は現役・コーチ・監督時代を通じて「優勝」の美酒を味わったのは、読売ジャイアンツのV10を阻止した1974年の一度だけだったようです。

最も優勝に近づいたのが前述した「10・8」決戦のあった1994年でした。
実は10・8決戦で戦った長嶋監督・高木監督のお二人は、そのずっと以前から接点を持っておられました。

高木守道氏が県立岐阜商業高校に入学して間もない頃、立教大学4年生だった長嶋茂雄氏が、どういう経緯かは分かりませんが、県立岐阜商業に野球を教えにいかれたことがあったそうです。

守備がうまく足も速い、いい選手がいるなと長嶋氏の記憶にもはっきり残っているようで、当時遊撃手だった高木選手の才能を見抜き、県立岐阜商業の当時の監督へ二塁手へのコンバートを薦めたのは長嶋氏だったようです。

後にプロ入りされた高木氏は、ある日の試合中、二塁走者となった長嶋氏の元へ駆け寄り「高校時代に指導をしていただきました」と挨拶されたようで、それに対し長嶋氏も「頑張れよ」と声をかけられたそうです。

最初の接点から40年近い年月を経て、お互い監督同士として相対したのが10・8決戦でした。

長嶋監督はこの10・8決戦を「国民的行事」と称してナインを鼓舞し、槙原寛己投手・斎藤雅樹投手・桑田真澄投手の三本柱を惜しげもなく注ぎ込み、執念で優勝をもぎとったのでした。

そして優勝インタビューで嬉しさのあまり「竜の背中に乗って天に昇る気分です」と答えられたのですが、その視線の先にジッとこちらを見ている高木監督の姿を見て衝撃を受けられたそうです。

「なんとバカなコメントをしてしまったのだろう」。
すぐに人を介して高木監督の元へお詫びの気持ちを伝えられたそうです。
「高木さんの気持ちも考えずに失礼なコメントをしてすまなかった。許して欲しい」。

それに対して高木監督は
「そんなこと、気にしないで下さい。長嶋巨人、見事な優勝です。おめでとうございます、とお伝え下さい」
と答えられたそうです。
まさに死力を尽くして真剣勝負を戦い終えた者同士にだけ分かり合える、お互いへのリスペクトの言葉だったように思えます。

日本のプロ野球が発足して80有余年、中日ドラゴンズも前身球団の時代を入れるとほぼ同じ歴史を積み重ねています。
プロ野球チームは、その球団を愛し応援するするファン無くしては存在できません。

現役時代は長く主力選手としてチームを引っぱり、コーチ・監督の時代には選手を育てチームの歴史を作ってきた高木守道氏の存在は、中日ドラゴンズファンにとっては特別な存在であったのだと思われます。

それがドラゴンズファンの間で語り継がれる二代目のミスタードラゴンズという称号なのだと思われます。(ちなみに初代は西沢道夫氏、三代目は立浪和義氏、高木氏も含め三人とも野球殿堂入りを果たしておられます)

80有余年の歴史の積み重ねの中で、プロ野球も日本の文化の一端を形作るものとして、日本国民の心の中に深く根をおろしています。

中日ドラゴンズファンを除くと、あの10・8決戦でミスタープロ野球の長嶋監督と相対した高木監督の名を思い出せない方は少なくないのかもしれませんが、歴史を紡いだお一人として、高木守道氏も日本のプロ野球文化の担い手のお一人であったことは間違いありません。

高木監督のもと、中日ドラゴンズが最後のAクラス(2位)となった2012年以降、もう7年間もBクラスに沈みっぱなしです。

高木氏もきっと草場の陰から後輩たちの活躍ぶりをご覧になっているに違いありません。
2020年シーズン、中日ドラゴンズの奮起を期待したいものです。
そして高木守道氏のご冥福を心よりお祈りいたします。長い間、お疲れ様でした!

(おわり)
2020/01/30

「福山義人のプロ野球に学ぶ組織論」一覧に戻る

筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

※福山義人氏への講演依頼はこちらから