藤川球児投手~クローザーとしての道を極めろ!【第120回】

藤川球児投手~クローザーとしての道を極めろ!【第120回】

2019年のプロ野球はクライマックスシリーズがすべて終了し、戦いの舞台はいよいよ日本シリーズへと進んでいます。

残念ながらクライマックスシリーズ敗退をもって今年度の戦いをすべて終えたチームがセパ両リーグで4チームありましたが、シーズン最終盤の6連勝によってシーズン最終戦で3位の座を確保し、その勢いでクライマックスシリーズ・ファーストステージも勝ち上がった阪神タイガースの戦いぶりがとても印象的でした。

という訳で、今回はその阪神タイガースの抑えのエース、藤川球児投手を取りあげさせていただきます。

藤川投手は1980年7月生まれの39歳、高知県高知市のご出身で右投左打の投手です。
余談ですが、父親が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に誕生したという奇縁から「球児」と名付けられたと伝えられています。

小学校時代、野球を始めた頃に藤川投手は元読売ジャイアンツの斎藤雅樹投手の大ファンだったそうで「斎藤投手こそ野球を始めたキッカケの人。あの人がいなかったら野球はやっていなかったかもしれない」とまで語っておられます。

進学された高知市立高知商業高等学校では2年生の夏に右翼手兼控え投手として甲子園に出場されています。

この時は兄の順一さんとの兄弟バッテリーが話題になったようです。
1勝はするも二回戦でチームは敗退しました。

ただこの時は、豊田大谷高校の古木克明選手(後に横浜ベイスターズに入団)と二人だけ2年生選手として高校日本代表にも選ばれています。

そして1998年秋のドラフト会議で阪神タイガースより1位指名を受け入団されました。
入団1年目はもっぱら体力強化に専念、二軍戦でも3試合の登板にとどまりました。

しかしその後も目立った活躍は出来ず、先発で12試合の登板機会を得た入団4年目の2002年にようやくプロ入り初勝利を挙げたものの、勝利はその1勝のみで年間成績は1勝5敗、防御率3.71。

藤川投手の入団5年目であった2003年は阪神タイガースが18年ぶりのセリーグ制覇を成し遂げた年でしたが、藤川投手ご自身は優勝への貢献はほとんど成し得ていない状態でした。

そして入団6年目、2004年のシーズンが藤川投手にとっての転機となります。
星野監督に代わってこの年より監督に就任された岡田彰布監督の決断で、先発で伸び悩んでいた藤川投手は救援要員に配置転換されました。

これは投球数が80球を越えたあたりから球威が落ちるという傾向を踏まえての決断であったようです。
併せて肩を痛めて二軍にいた春先に、山口高志二軍投手コーチから受けたアドバイスが藤川投手を劇的に変化させることになったようです。

山口コーチは藤川投手に対して「上から投げ下ろすようにボールを叩きつける感覚で投げろ」とアドバイスされたそうです。
これを機に、下半身を使ってタメを作って投げ下ろす形へフォームを改造し、軸足をうまく使う方法を身につけることによって、球速が急激に増すことになりました。

まさに今に至る「藤川球児の火の玉ストレート」の原型がこの年に出来上がったのだと思われます。

そして翌2005年、中継ぎ投手として80試合に登板し、7勝1敗46ホールド、防御率1.36の成績を残し、最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲ると共に、藤川球児投手→ジェフ・ウィリアムス投手→久保田智之投手へつなぐJFKトリオの一角としてセリーグ制覇へ多大な貢献を果たされました。

入団以来7年、ドラフト1位の入団から少し時間はかかったものの、日本を代表する中継ぎ投手の立場にまでようやくたどり着かれました。

その後は「うなって浮き上がってくる」と形容されたストレートとキレ味鋭いフォークボールを武器に、セットアッパー(中継ぎ)、クローザー(抑え)として活躍し、2006年には二度目となる最優秀中継ぎ投手のタイトルを、2007年・20011年には最多セーブ王のタイトルを獲得されています。

併せて北京オリンピックの野球日本代表やWBCの日本代表に選ばれる等、まさに球界を代表する投手のお一人という立場を固めていかれました。

藤川投手はご自身が活躍を重ねる中で、入団10年が過ぎる頃よりメジャー指向を強めていかれます。

当初はポスティングシステムを活用してのメジャー行きを希望されましたが、球団は認めず、結局海外FA権を取得された2012年のシーズンオフにメジャーリーグ挑戦を正式に表明され、その暮れにシカゴ・カブスとの間で2年契約を締結し、海を渡ることとなりました。

ご本人は渡米前の会見で「向こうで現役の最後までやるつもり」との覚悟を胸に旅立たれ、開幕戦で初セーブをあげる等、順調な滑り出しと思わせたものの、4月中旬に右前腕部の張りで無念の故障者リスト入り。
5月前半に復帰し、しばらくは順調に好投を重ねるも5月下旬に再び前腕部の張りで二度目の故障者リスト入り。
そのまま6月初旬にトミー・ジョン手術を受けて1年目のシーズンを終えられました。

2年目は前年の手術の影響から故障者リスト入りを繰り返し、ほとんど活躍できない状態でシーズンを終えられました。

メジャー3年目は、テキサス・レンジャーズと新たに契約を結んでの再出発となるはずでしたが、今度は右足付け根の張りで故障者リスト入りした状態での開幕となり、5月中旬の復帰登板後、2試合の登板で3失点を喫した段階で自由契約となってしまいました。

藤川投手のメジャー挑戦はご本人にとっても不本意な、不完全燃焼な状態での幕引きとなりました。

アメリカからの帰国後、その年(2015年)は独立リーグの四国アイランドリーグで、故郷高知県を本拠地とする高知ファイティングドッグスに無報酬契約で所属し、その年の暮れに翌年からの新監督就任が決まっていた金本監督のもと、古巣阪神タイガースへの復帰が決まりました。

復帰初年度となった2016年は先発投手として5試合に登板するも1勝2敗・防御率6.12と振るわず、5月中旬から再び救援投手に転向されました。

ここから2018年までの3シーズン、甲子園球場で16登板試合連続無失点の記録を作ったり、NPB史上146人目となる一軍公式戦通算1000奪三振の記録を史上最短の771回3分の2イニングで達成(従来の記録は野茂英雄投手の871イニング)する等、それなりの存在感を示してはおられたものの、自責点がつかない場面での救援失敗も結構あったりと、全盛時との比較が話題にならないレベルでの活躍であったように思われます。

ところが今シーズン、途中まで抑えであったラファエル・ドリス投手の不調で7月後半以降クローザーの役割に固定されて以降、見違えるように球が走り、全盛時を彷彿とさせるような投球で試合の最後を締め続けてくれました。

その姿を象徴するのが、クライマックスシリーズ・ファーストステージでの対DeNA戦、1勝1敗の後の第3戦の8回・9回、ファイナルステージでの唯一の勝利となった対巨人戦の第3戦の8回・9回、共に1点差の場面を回をまたいで無安打無失点で切り抜け、勝利に結びつけた圧巻の投球でした。

こうした藤川投手の投球に対しては、横浜DeNAベイスターズの筒香選手、読売ジャイアンツの丸選手、坂本選手といった強打者から、ボールのキレの凄さとタイミングの合わせづらさを称賛する声が出ていますし、受ける阪神タイガースの梅野隆太郎捕手も、状態の悪い時にもバッターのタイミングを狂わせてファウルを取り、相手を追い込む形を作ることの出来る投球技術に助けられていると語っておられます。

まさに中継ぎ・抑え投手としての円熟の境地に差し掛かりつつある藤川投手ですが、チーム内における自らの立ち位置、役割についてこんなことを語っておられます。

「僕の役目として、投手陣全体をしっかり見てあげようと思っています。他の投手たちが不調になる前の段階で変化に気づいてあげたり、トレーナーやコーチに気づかれるより前に声を掛けてあげて、どういう方法でケアしたらいいか、といったアドバイスをしていけたらいいな、それぐらい近くにいてあげたいな、と思っています。」

「併せて外国人の投手に対して、文化の違いや認識の違いから生ずる苦痛を感じさせないでプレーに専念できるようにしてあげたいなと思っています。僕自身メジャーで結構苦痛も感じていましたから・・・」

藤川投手の存在は阪神タイガースの投手陣にとっては、まさにプレーヤーの中に信頼できるコーチがいるような感じではないかなと思われます。

昨年の最下位から今年の3位へと順位を押し上げた阪神タイガースの成績を見比べると、決定的な違いがひとつ目につきます。

昨年も今年も100試合経過時点では三つの負け越し・借金3で同じ成績なのですが、そこからの残り43試合を、昨年は14勝28敗1分であったものが、今年は23勝19敗1分となっています。

崩壊状態であった昨シーズンと比較して、今シーズンは選手が最後まであきらめず、CS出場権を勝ち取る為に一丸となって戦ったことが見てとれます。
選手を最後まで鼓舞し、選手のモチベーションを一定レベル以上に維持し続けた矢野監督の手腕は実に見事であったと言わざるを得ません。

広い甲子園球場を主戦場としている以上、阪神タイガースの戦い方は少ない得点を守り切るという戦い方が主となります。
とすると試合の後半を担うリリーフ陣の充実なくして上位への進出は望めません。

そんなリリーフ陣ひいては先発陣も含めた、阪神タイガース投手陣の精神的支柱としての藤川投手の存在の大きさが今シーズンの後半浮き彫りになったように思われます。

藤川投手は1980年生まれ、日本のプロ野球界に人財を数多く輩出した、俗に言う松坂世代のお一人です。
松坂世代の現役選手も残り少なくなっていますが、意外なことにこの世代で名球会入り(野手は2000本安打、投手は200勝または250セーブ)を果たした選手は一人も出ていません。

藤川投手が今シーズンの後半同様、来シーズンもクローザーとして起用されるなら、あと9セーブで250セーブに到達し、松坂世代唯一の名球会入り選手となられるのかもしれません。

来季の阪神タイガースには、もう少し打撃陣の補強を行ない(今シーズンはチーム得点数セリーグ最下位、チーム防御率とチーム盗塁数はセリーグ1位)、投打のバランスのとれたチームとして更に上を目指せる体制を整えていただきたいものです。

そうなった時、今シーズンの後半以上に藤川投手もチームの精神的支柱としての輝きを増すに違いありません。
来シーズン不惑の歳を迎える藤川投手の益々のご活躍をお祈りしています。

(おわり)
2019/10/21

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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