平石洋介監督~名もなき選手だった男の一流監督への道【第113回】

平石洋介監督~名もなき選手だった男の一流監督への道【第113回】

平成から令和に元号がかわり、開幕から約二ヶ月が経過した2019年のシーズンは5月の一ヶ月で様相が一変してしまいました。

セリーグでは開幕から5カード連続で負け越し、一向に調子の上がらなかった広島東洋カープが怒涛の11連勝を含めて、5月一ヶ月間を20勝4敗という驚異の勝率で一気に首位に浮上し、早くも独走の気配すら見せ始めています。

一方パリーグは福岡ソフトバンクホークスが少し調子を落としたことで大混戦の様相を呈しています。
そんな中、今シーズンより38歳(開幕時点)の新監督が指揮をとる東北楽天ゴールデンイーグルスがとても元気でパリーグの台風の眼となっています。

そんな訳で今回はその楽天の新監督である平石洋介監督を取りあげさせていただきます。

昨年、東北楽天ゴールデンイーグルスの年間成績は58勝82敗3分、借金24を抱えての最下位でしたが、今シーズンは6月2日時点で、29勝23敗1分で2位に1.5ゲーム差をつけての堂々首位と頑張っています。

しかもエース則本昂大(タカヒロ)投手を開幕から故障で欠き(6月2日現在まだ離脱中)、開幕投手の岸孝之投手がその開幕戦で左太もも裏の故障で緊急降板(5月25日に復帰・6月1日に今季初勝利)するというアクシデントに見舞われ、昨年のエース二枚看板を欠く状態であったことを考えると、まさに大健闘であったと思われます。

こんなチームを率いる平石監督とはどんな人なのか、氏のプロフィールから振り返ってみたいと思います。
平石監督は1980年4月生まれの39歳・大分県杵築市出身の左投左打の野手です。

中学生時代に大阪へ移り住み、ボーイズリーグの名門チーム「八尾フレンド」に所属し、ボーイズ時代には関西センバツチームの主将として世界一も経験されています。

その後、今は廃部となってしまったPL学園高校へ進学されましたが、その原点は間違いなく、このPL学園高校時代にあったようです。

当時のPL学園は日本の高校野球界を代表するチームのひとつであり、平石監督も3年生の夏の甲子園に出場された際には、松坂大輔投手(現中日ドラゴンズ)率いる横浜高校と準々決勝であの球史に残る延長17回の死闘を繰り広げられました(試合は9-7で横浜の勝ち)が、その時の主将が当時の平石洋介選手です。

ただ高校入学後、左肩を痛め、高2の春に左肩の手術(関節唇損傷、腱板機能障害)を受けた平石選手は、背番号13番をつけ三塁ベースコーチを務める控えの主将でした。

その頃のPL学園高校野球部ではチームメートが投票で主将を選び、それを監督・コーチが承認するという方法をとっておられたようですが、手術後のリハビリで選手としてのチームへの貢献があまり出来ていないにも関わらず、その人間性、野球への情熱を近くでずっと見ていたチームメートは平石選手を主将に選んだようです。

当時のチームのエースで副将であった上重聡投手(立教大学→現日本テレビアナウンサー)は「お前が言えばみんな納得する。プレーしている、していないは関係ない。思っていることを言ってくれればいい」と平石選手に伝えられたようです。
その言葉を聞いた平石選手はスーッと心が楽になったそうで、そこから気持ちが変わったと自ら語っておられます。

「プレーで引っ張れないかわりに積極的に部員と話し、コミュニケーションを取りながらチームの為にやれることをやろうと。試合に出ないやつの気持ちも分かったし、ケガをして主将もやって。それが自分の原点と言えば原点かな」と述懐しておられます。

そしてもう一人、高校時代の平石選手に将来の指導者としての片鱗を見出しておられた方がおられます。

平石選手の在籍時にPL学園高校野球部のコーチをされていた清水孝悦(タカヨシ)氏(1984年PLの主将として当時2年生の桑田真澄・清原和博選手らを率いて春夏の甲子園で共に準優勝。現在藤井寺市で実家の寿司店を継ぎ、店主)です。

ある時チームの主軸である大西宏明選手(元プロ野球選手、近鉄・オリックス・横浜に在籍)が練習中に思うようなプレーが出来ずふてくされた態度を見せていた為、グラウンド外周のランニングを清水氏が命じたようです。

しかし大西選手の姿勢に不満の様子を見てとった清水氏は、大西選手本人ではなく、主将の平石選手を呼びつけ「お前は同級生にものも言えんのか。チームをうまくまとめられていないやないか」と怒鳴りつけたようです。
すると平石選手は大西選手めがけて走り出し「なめとんのか!」と、それは強烈な指導をされたそうです。

主将としての平石選手のその姿勢に触れ、改めて平石という選手の芯の強さ、主将としての覚悟を確信したと清水氏は語っておられます。清水氏が平石選手の主将としての資質を試されたのも事実でしょうが、同級生の主力選手にも「アカンことはアカン」と言えるキャプテンがいてはじめてチームにまとまりが生まれる訳で、清水氏は一見おとなしそうな平石選手が「実はええ芯を持った男やな」と改めて思われたそうです。

そして14年間PLのコーチを務めた中で接した歴代主将の中で、コーチである清水氏にはっきり意見を述べてきたたった二人のうちの一人が平石選手だったそうです。(ちなみにもう一人は現阪神タイガースの福留孝介選手だったとのこと)

高校卒業後は同志社大学、トヨタ自動車へと進まれ、2004年秋のドラフトで東北楽天ゴールデンイーグルスから7巡目の指名を受け、入団されています。

2004年秋は東北楽天ゴールデンイーグルスが創設された時であり、この時に指名された選手が球団の第一期生となります。
翌2005年の開幕には新人で唯一の一軍ベンチ入りメンバーとして登録されました。

球団としての初戦は3対1で勝利したものの、平石選手が9番中堅手として初先発してフルイニング出場された第二戦(千葉マリンでのロッテ戦)は0対26の歴史的敗戦でした。

以降長く一軍に定着は出来ず、結局7年間の現役生活で122試合に出場して193回打席に立ち、172打数37安打、打率.215、1本塁打、10打点。
これが現役選手としての平石選手が残された全成績です。

そして2011年のシーズン終了をもって戦力外通告を受けられました。
通常であれば、ここで再起をかけてトライアウトを受けるか、野球とは関係のない職業への再就職をされるのでしょうが、平石選手には戦力外通告の二週間後、今度は育成コーチのオファーがあり、指導者への第一歩を踏み出されることとなりました。

指導者としては二軍外野守備走塁コーチ、一軍打撃コーチ補佐、一軍打撃コーチ、一軍打撃コーチ兼走塁コーチと毎年のようにより重い役割を担いながらステップアップしていかれました。

そして2011~2014年の4年間、故星野仙一氏が一軍の監督に就任され、平石監督が一軍打撃コーチ補佐に就任されたことで一軍ベンチの中で初めて二人の接点が生まれました。

ある試合中、星野監督がバントの為の代打をコーチに命じられたことがあったそうです。
しかし指名された選手はバントがあまり上手ではないと思った平石コーチが、思い切って初めて星野監督に近づき進言されたそうです。
「バントならベンチにいる〇〇の方がうまいです。彼を代打でお願いします。やつのバントなら僕は心中できます」。

星野監督は平石コーチの言うとおりの選手を起用し、バントは成功しました。
失敗すれば責任を問われかねない若いコーチの勇気を意気に感じたのか、以降平石コーチに星野監督から「晩飯行こうや」という呼び出しが時々かかるようになったそうです。

そんな時二人の会話に野球の話は一切なく、星野監督が政治や社会問題の話をされるのを平石コーチはうなづいて聴くだけだったそうですが、ある時星野監督は平石コーチにこんな一言を言われたそうです。
「お前、将来は監督になるんだぞ——。」

2014年シーズン終了をもって監督を退任し、球団の副会長に就任した星野氏が平石コーチの為に準備した次のポストが二軍監督でした。
2016~2017年の二年間、東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍監督として、若手選手を育成しながらイースタンリーグ2位という球団初の結果を二年続けて出されました。

ご本人は「二軍監督の経験はめちゃでかかった。全体的なことも当然見ないといけないし、コーチとのコミュニケーションの取り方とか、気を配るポイントとか、トップに立って初めて分かることがたくさんありました」と語っておられます。

その後2018年には梨田監督のもとで一軍のヘッドコーチ兼打撃コーチに就任されましたが、交流戦期間中に成績不振の責任をとって梨田監督が辞任された以降、昨シーズンの後半80試合を監督代行として戦われ、37勝41敗2分と五分に近い成績を残し、今シーズンより正式に監督に就任されました。

12球団最年少の監督であり、松坂世代と呼ばれる1980年代生まれから誕生した初めての監督です。

平石監督はその指導哲学を、選手と本気で向き合うこと、その為に必要なものがコミュニケーションであるとされており、選手をやる気にさせる為に徹底的に対話をし、自らの情熱をぶつけていかれます。

ただ一方通行にならないよう選手の言い分も聞き、いいものはいい、しかし駄目な時は厳しく言うということを徹底しておられるようです。
この対話による意思疎通で、選手も自分の役割や、今何をすべきかを共通認識として共有し、そのベースが出来つつある中で、東北楽天ゴールデンイーグルスのチームとしての戦い方が整いつつあるようです。

同世代の選手もいる、監督よりも年長のコーチも数多くいる中で、年長の選手、ベテランのコーチまでもが「監督を男にしたい」と口にされています。
一方で平石監督のことを「厳しい人」という言い方をされる選手、コーチも何人もおられます。
それはすぐ怒るとか怖いということではなく、当たり前のことを当たり前に出来ない選手に対して厳しいということのようです。

野村監督・星野監督時代の一時期を除き、どちらかと言えば弱小チームである時期の長かったチームが、チーム創設期からの生え抜き監督のもと、徐々に徐々に内面から変化し体質が強化されつつあるように感じられてなりません。

選手の適性を見抜き、状況に応じた場面場面で最もふさわしい選手を起用し、一試合一試合の勝ちを目指し、その積み重ねで年間最大の成績パフォーマンスを引き出すことが、プロ野球監督の果たす役割とするなら、現役選手時代の成績は本来あまり関係ないはずです。

しかし日本では現役時代の成績が一定レベル以下の人は今も監督に起用されることはあまりありません。
そんな事例はかつて阪急ブレーブスの黄金時代を築いた故上田利治監督が唯一の事例かもしれません。

故上田監督が現役時代に放ったヒットは56本、平石監督のヒットはそれより少ない37本ですが、選手としてのキャリアとは関係なしに指導者としての資質を磨き経験を積むことで、プロ経営者ならぬプロ指導者としてのプロ野球監督像というものが生まれるキッカケになるのかもしれません。

東北楽天ゴールデンイーグルスという組織は、指導者としての才能・資質を平石洋介氏に見出し、偶然かもしれませんが、計画的にステップを踏ませることで生え抜きの監督誕生にまで昇華させた初の組織であるのかもしれません。

監督としての評価はイコール、年間のチーム成績であるとするなら、開幕から二ヶ月の同一リーグ内の戦いを首位という最高の形で折り返した東北楽天ゴールデンイーグルスの、交流戦・そして後半の戦いに注目せざるを得ません。平石監督とチームの戦いを日々関心を持って見させていただこうと思います。

(おわり)
2019/6/3

「福山義人のプロ野球に学ぶ組織論」一覧に戻る

筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

※福山義人氏への講演依頼はこちらから