権藤博氏~球界ご意見番の壮絶な足跡を振り返る!【第107回】

権藤博氏~球界ご意見番の壮絶な足跡を振り返る!【第107回】

2019年のプロ野球は春季キャンプの始まりと共に一年がスタートします。今年はどんな戦いが見られるのか、今からワクワクしますが、そんな中、先日2019年の野球殿堂入り表彰者の発表がありました。この野球殿堂とは日本の野球の発展に大きな貢献をした方々の功績を永久に讃え、顕彰する為に1959年に創設されたものです。競技者表彰と特別表彰で構成され、競技者表彰は更にプレーヤー表彰とエキスパート表彰で成り立っています。

細かな規定はありますが、平たく言うと現役引退後20年以内に受けられるのがプレーヤー表彰、21年以上経過した元選手が対象となるのがエキスパート表彰です。今年は、このエキスパート表彰に現役時代は中日ドラゴンズの投手として活躍され、1998年に横浜ベイスターズを監督として日本一に導かれた権藤博氏が選ばれました。今回はこの権藤博氏を取りあげさせていただきます。

権藤氏と言えば「ハマの大魔神」と呼ばれた佐々木主浩投手を擁して横浜ベイスターズを38年ぶりの日本一に導いた権藤監督としてのお姿、後に古巣中日ドラゴンズの一軍投手コーチに就任されるも高木守道監督との折り合いが悪く、ベンチで監督・コーチが言い争う姿がメディアを通して全国に知れ渡ったことや、更に後に小久保監督のもとWBC日本代表チーム(侍ジャパン)の投手コーチを務められたことが記憶に残りますが、現役時代も太く短く、凄まじい戦績を残された名投手でした。そのあたりも含め、権藤氏のプロフィールからご紹介させていただきます。

権藤博氏は1938年(昭和13年)12月生まれの80歳、佐賀県鳥栖市のご出身です。佐賀県立鳥栖高等学校卒業後、社会人野球のブリヂストンタイヤに進まれ、1960年の都市対抗野球に日鉄二瀬の補強選手として出場し、2試合で好投されましたが、日鉄二瀬の監督を退任された濃人渉氏が中日の二軍監督に就任されたことが縁となり、1961年中日ドラゴンズに入団されました。この時権藤氏22歳、まだドラフト制度が始まる前の時代でした。

入団一年目、かつての大エース杉下茂氏の背番号20番を受け継ぎ、その年のオープン戦で28回3分の1を投げて自責点1(防御率0.31)の成績を残すと、一軍監督となっておられた濃人監督から「今シーズンはお前を軸にしていく」と言い渡され、一年目からエースとして大車輪の活躍をされました。年間130試合の半分以上にあたる69試合に登板(うち先発登板44試合)し、35勝19敗・310奪三振・防御率1.70を記録し、最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得し、新人王・沢村賞も受賞され、その年のセリーグ・ベストナインにも選ばれています。

そしてこの成績をあげる為に、なんと投げた投球回数が429回3分の1イニング。先発完投して9回を投げることを基準にすると、なんと47試合分に相当します。今の時代のような先発・中継ぎ・抑えという分業制が確立される前のことではあるのですが、現代の常識ではちょっと考えられないような投げっぷりでした。この連投につぐ連投を重ねる権藤投手を評して「権藤・権藤・雨・権藤」という流行語まで生まれたようです。

当時は東海道新幹線がまだ開通する前でしたから、プロ野球の興行は基本的に月曜日・金曜日が移動日となっており、火曜水曜木曜の三連戦と土曜日曜3試合(日曜日に2試合をダブルヘッダーとして実施)で週に6試合のカードが組まれていました。権藤投手は日曜日の第1試合で完投勝ちし、第2試合で勝てそうな展開になると再び登板し、一日2勝をあげたこともあったそうです。

1年目にこれだけの登板数をこなしながらも、2年目も61試合(先発39試合・投球回数362回3分の1)に登板して30勝17敗、212奪三振、防御率2.33の成績を残し、2年連続の最多勝に輝かれました。しかし権藤投手がエースとして君臨されたのはここまでで、3年目には10勝(それでも200イニング以上を投げておられますが・・・)、4年目には6勝と成績も下降線をたどられました。過酷な登板に加え、当時の誤ったトレーニング・リハビリテーション方法(例えば投球直後に肩を温めたり、オフには何もせずに動かさない・・etc)もあって肩を痛め、再び球威が甦ることはなかったようです。

その後1965~1967年の三年間は野手に転向され、三塁手・遊撃手として年間数十試合の出場はされていましたが、1967年にその年のセリーグ最多犠打を記録するも、それ以外は目立った成績を残すことは出来ず、1968年に再度投手に復帰されています。ただ投手として投げ始めた途端、おとなしかった右肩に再び痛みが出て、結局投手復帰後は1勝をあげただけで、翌年のシーズン終了(最後の1年は一軍登録無し)をもって引退を決意されました。通算9年間の現役生活のうち、6年間を投手として過ごされ、生涯82勝の勝ち星のうち75勝を最初の3年間で、もっと言えば65勝を最初の2年間で記録されるという、太く短い壮絶な現役生活でした。

現役引退後は地元ラジオ局で月2~3度の野球解説の仕事をしながら、ダンロップスポーツ中部という会社で再びサラリーマンとして伝票を書いたり、デパートの棚卸し作業を行なったりしながら雌伏の3年を過ごされました。そして1973年から中日ドラゴンズの二軍投手コーチとして、34歳で第二の野球人生を始めておられます。そして翌々年(1975年)の秋、その後の長く続くコーチ稼業の原点となる出来事に遭遇されます。

その年、シンシナティ・レッズとボストン・レッドソックスのワールドシリーズを観るかたわら、アメリカの教育リーグの現場を覗かれたようです。当時日本のプロ野球では、一般的にファームの選手に対しては身振り手振りも交え、時には「なんでこんなことも出来ないんだ!」と怒鳴りつけたりしながら、熱心に教えることが一般的であったようで、現役引退後間もない権藤コーチも、まだ体も十分動くし、そんなコーチの一人であったようです。

教育リーグでもまだ初心者丸出しの右打ちの選手に、あるコーチがライトヒッティング(流し打ち)を教える為、選手に「バッティングゲージの右側のネットに打球を当てなさい。ボールが当たったら私を呼びに来なさい」と言い残してどこかへ行ってしまったそうです。その選手は一生懸命右側のネットに当てようとバットを振るが全く当たらない。いくら打っても右側に打球が飛ばないその選手は、自らの不甲斐なさに業を煮やしたのか、バッティングゲージの脇でじっとその様子を見ていた権藤氏に「一体どうしたらいいんだ?」と聞いてきたそうです。

「これじゃ一生かかっても右側には当たらんな」と思って見ていた権藤氏は「ステイバック。もっとバックスイングの時にタメを作りなさい」とすぐに助言したそうです。すると数本打つうちに要領をつかみ、しばらくしてその選手の打球は右側のネットに当たるようになったそうです。その選手は嬉々として先程のコーチに報告しに行ったそうですが、コーチは「ベリー・グッド。で、誰に教えてもらった?」「彼です」。

するとコーチは権藤氏のところへやってきて「Mr.ゴンドウ。教えてくれるのは有難い。でも教えられて覚えた技術はすぐに忘れてしまうものなんだ。それとは逆に自分でつかんだコツというのは忘れない。だから私たちコーチは、選手がそのコツをつかむまでじっと見守ってやらなければいけないんだ」と言われたそうです。権藤氏はその言葉を聞き、冷や水をぶっかけられたような衝撃を受けられたとのことです。言葉の上では知っていた「Don’t over teach(教えすぎるな)」の本当の意味をこの時に悟られたようです。

この出来事を原点に、権藤氏は中日ドラゴンズを皮切りに近鉄バファローズ、福岡ダイエーホークス、横浜ベイスターズで投手コーチあるいはバッテリーコーチを歴任され、何人もの監督の下で仕事をされました。そして1998年には横浜ベイスターズで監督に就任されたのですが、それまでのコーチ経験の中から「これだけはやらんぞ」「こんな監督にはならんぞ」ということを蓄積した反面教師的な監督像が「べからず集」として頭の中に出来上がっていったそうです。中でも権藤氏の「べからず集」に一番情報を提供してくれたのが近鉄バファローズ時代に仕えた仰木彬監督だったそうですが、在籍された二年間、毎日のように衝突し、やり合ったそうですが、まさに「監督のイエスマンになるのならコーチは要らない」という権藤氏のコーチ哲学を体現するような日々だったのだと思われます。

こうして1998年に、前年務めたコーチから初めて監督に昇格された権藤氏でしたが、それまでに蓄積できていた「べからず集」のおかげで何の不安もなかったようです。基本的に選手の自主性に任せるスタイルを貫かれ、選手全員を集めて行なう全体ミーティングも基本的には行わなかったようです。ただ監督に就任されたばかりの春のキャンプの初日に一度だけ全体ミーティングを行われたようですが、そこでも権藤監督が選手に言われたのは「皆さんはプロですから、プロらしくやって下さい。以上!」のひと言だったようです。

アメリカで“人を育てるコーチング”を学ばれてから、部下である選手を怒鳴りつけるようなことは段々減っていったようですが、戦う姿勢の見えない選手に対しては、大声を張り上げ怒鳴りつけることもあったようです。即ち消極的になって相手から逃げたり、勝負を避けたり、といったことです。こんな選手に対しては怒るだけでなく、そんな場面を乗り切る心の持ちようと戦い方を教えてやらなければならないとも述べておられます。

緊迫した場面で緊張したり、萎縮してしまうのは「上手くやらなければ・・」「勝たなくてはならない」と結果を求めすぎているからで、そんな選手に対しては「結果を求めてしまう気持ちは分かる。しかしお前は結果など気にするな。悪い結果が出たとしたら、それは俺の責任でお前の責任ではない。だから思い切ってやれ」「打たれたらどうしようとか、点をとられたらどうしようとか、くだらんことは考えなくていい。それを考えるのは俺の仕事だ。人の仕事をとるんじゃない。お前はバッターと真っ向勝負すればいいんだ」と叱咤されてきたようです。

「現代野球は抑えで8割が決まる」「抑え投手は打者の4番に該当する。先発3本柱より格上」「投手の肩は消耗品」「投球フォームはその投手の主張」といった持論のもと、絶対的抑えの佐々木主浩投手へつなぐリリーフ投手の「中継ぎローテーション」を確立し、個性あふれる選手たちを束ねて日本一にまで上り詰めた1998年の横浜ベイスターズでの戦いぶりこそが、野球人権藤氏のひとつの集大成であったのかと思われます。

精神論と自らの経験をベースとした指導者が多いように見受けられる球界の中にあって、選手の自主性を尊重し、主役は選手であり、監督・コーチは選手が能力を発揮できる環境を整えることと考えておられる権藤氏は、球界の中では少し異質の存在であるのかもしれません。しかし私の目には権藤氏の考え方・スタイルの中にこそ、現代のビジネスの中でも通用するマネジメントの真理が存在しているように思えました。今回の殿堂入りを機に、球界のご意見番として益々のご活躍をお祈りしたいものです。
                          

(おわり)
2019/2/1

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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