福浦和也選手~レジェンドが紡ぐ筋書きのない物語【第99回】

福浦和也選手~レジェンドが紡ぐ筋書きのない物語【第99回】

8月も後半となり、各チームとも100試合以上を消化し、優勝へ向けてのラストスパート並びにクライマックスシリーズ出場・Aクラス入りをかけての熾烈な戦いが繰り広げられる時期へ入ってきています。

そんな中で、優勝争いとは少し縁遠くなった位置で、しかもシーズンの個人タイトル争いとも無縁の世界にいながら、特定のファンの方々から熱烈な声援を送られ、絶大な支持を集める一人の選手がおられます。今回はその選手を取り上げさせていただきます。

その選手の名は、千葉ロッテマリーンズの福浦和也選手です。

福浦選手は1975年12月生まれの42歳、千葉県習志野市出身の左投左打の野手(主に一塁手)です。習志野市立習志野高校時代は投手として活躍されましたが、甲子園出場の経験はありません。

高校3年(1993年)秋のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから投手として7位で指名を受け、入団されています。実はこの年はドラフト会議における逆指名制度が取り入れられた初年度であり、7人目の選手を指名したのは唯一千葉ロッテマリーンズだけでした。

従って福浦選手はこの年のドラフト会議での最終指名者としてプロ入りされた訳ですが、支配下登録選手枠70名の最後という扱いで背番号70番での入団となりました。

投手としての入団でしたが、入団してすぐに肩を痛められたことと、当時二軍打撃コーチをやっておられた山本功児氏(後に監督・2016年4月64歳にて没)に打撃の才能を見出され、打者転向を薦められたこともあり、プロ入り1年目の後半から野手に転向されています。

そこからは守備と打撃で徹底した鍛錬を受け、入団後の最初の3年間をトレーニングに明け暮れる日々を過ごされました。

そして入団4年目の1997年、7月になって初めての一軍昇格を勝ち取り、その年に67試合に出場して打率.289の成績を残し、一軍プレーヤーとして定着されました。

翌1998年には、背番号も前年までの70番から今もつけておられる9番に替わり、開幕からレギュラーとして129試合に出場、初の規定打席にも到達し、打率.284で打撃ランキング12位に入るなど、チームの主力選手の一角を占める立場となられました。

1999年、2000年にはチーム事情で外野守備につく試合も結構ありましたが、2001年には一塁手のレギュラーに復帰し、腰痛で欠場される試合はあったものの、当時日本ハムファイターズに在籍されていた小笠原道大選手との最終戦までもつれる争いを制して首位打者(打率.346)を獲得、ホームランも初の二桁となる18本を打つなど、チームの中核打者として円熟期に入っていかれます。

首位打者を獲得された2001年(8年目)から6年連続で打率3割を記録されましたが、この間チームは2005年に31年ぶりのリーグ優勝と日本シリーズ制覇を成し遂げています。

当時のボビー・バレンタイン監督は相手投手や状況に応じて日替わりの打順を組まれましたが、唯一福浦選手だけはシーズンを通して3番に固定されていました。極めて信頼の厚かったことが窺われます。

さてここで福浦選手の選手としての特徴に触れさせていただきます。打撃に関しては、ボールを捉える技術に長けており、安定した縦軌道のスイングから広角にライナーではじき返す打撃が特徴と言われています。

福浦選手がバッターへ転向する道筋をつけた元監督・コーチの故山本功児氏は「バットコントロールは天性のもので、バッティングに関しては天才的なセンスを持っている」と評されていました。

当初は左投手の外寄りのボールを苦手とされていましたが、首位打者を獲得した2001年に対左投手の打率.408と克服されたことが、その後の飛躍の大きなポイントとなったようです。

一方守備面においては、一塁守備におけるグラブさばきと正確なスローイングに定評があり、難しいワンバウンドの送球も容易に捕球してしまう上手さが目立ったようです。パリーグの一塁手部門で三度ゴールデングラブ賞を受賞されています。

攻守にわたる中心選手として活躍された福浦選手ですが、年齢を重ねると共に腰痛や首痛、脇腹痛などの故障に苦しむようになり、35歳となる2010年のシーズンから指名打者、代打として出場されることが多くなりました。

守備の負担が軽減されたことで打撃が甦り、2010年には指名打者部門で初のベストナインに選ばれると共に、リーグ3位からクライマックスシリーズを勝ち上がり、中日ドラゴンズを破っての5年ぶりの日本シリーズ制覇にも貢献されました。

しかし30歳代半ばを過ぎた頃から出場試合数は減少し、安打数も目に見えて減ってきています。そんな中でコツコツと積み上げてきた安打数は、昨シーズン終了時点で1962本となり、名球会入りとなる節目の2000本まで残り38本となっていました。

千葉に生まれ、千葉にある高校を卒業して、千葉をフランチャイズとするロッテ一筋25年の福浦選手になんとしてでも2000本安打を打って欲しい、これは千葉ロッテマリーンズのファンの方々の悲願とも言える思いのようです。

そんなファンの熱い思いに応えるべく、球団も出来る限りの支援を約束しての今シーズンの開幕でした。

しかし残り38本は、伸び盛りの時期であれば何の問題もない数字なのでしょうが、過去5年間(2013~2017年)の福浦選手の安打数32・26・47・20・30本という数字を見ると、決してたやすいものではないことがお分かりいただけると思います。

しかも一軍のベンチ入りメンバー数には限りがあり、ベテラン選手が一人の枠を占め続けることは、伸び盛りの若手に経験を積ませる為の枠を奪ってしまうことにもなり、そういった意味でも結果の求められる立場としてのスタートでした。

そうした中、開幕当初の3・4月こそ24試合に出場して13本の安打を打たれましたが、5月・6月は各1本ずつ、7月に盛り返して10本の安打を放つも、8月になってからは出場試合数もめっきり減って5試合で2本(8月19日現在)、現時点で残り11本となっています。

千葉ロッテマリーンズの残り試合(8月19日終了時点で39試合)を考えても、なんとも言えない微妙な状況となっています。

シーズン当初は指名打者として、1試合で複数回の打席に立たれることも結構ありました。

8月19日(日)の試合では久しぶりに指名打者として三度打席に立ち1安打されましたが、まだクライマックスシリーズ進出の可能性を残す中で、チームの戦力として、どの程度代打としての起用だけでなく指名打者としての打席を手にすることが出来るか、ということも2000本への過程として大きく影響してくるものと思われます。

近年、プロ野球の地上波によるテレビ中継はめっきり減ってしまいました。しかし一方でBS放送・CS放送の有料チャンネルまで含めると、12球団すべてのチームの全試合を視聴することが可能となっており、決してプロ野球人気が衰退しているという訳ではありません。

その証拠に球場に足を運ぶ観客動員数は着実に増えており、今や全国一律に特定球団に人気が集まるのではなく、地域コンテンツとして、各球団のフランチャイズ地域を中心に深く深く生活に密着した文化として浸透し始めているように思われます。

もちろん最大のファンサービスはチームの勝利と、思わず魅了されるような面白いゲーム展開なのですが、お金を払って球場に足を運ばせる為の集客への経営努力についても、各球団ともかなりな工夫を施しています。

選手名の入ったユニフォームなど各種グッズの販売や、選手を登場させてのファンサービス、ファンクラブ組織の充実等々、ひと昔ふた昔前とは様変わりとも思えるぐらいの施策が打ち出されています。

そういった中の一環として、各チームとも自チームの歴史を尊重する風潮が強まっていますが、今回取り上げた福浦選手は、いずれ千葉ロッテマリーンズのファンの間で語り継がれる選手となられるに違いありません。

日本にプロ野球が誕生して80数年、まさにフランチャイズを構える地域を中心に、人々の生活の中に根を下ろした文化として、プロ野球チームが根づいてきた証しのように思えます。

ドラフト会議の最終指名の高卒ルーキーという立場から自らの努力で這い上がり、長年チームの主力として君臨した選手が、プロ野球の80数年の歴史の中での史上52人目となる2000本安打達成という金字塔を前にもがき苦しんでおられる、色々調べてこのコラムを書かせていただいている私ですら、思わず感情移入してしまいそうになりました。

ずっと千葉ロッテマリーンズを応援してこられたファンの方々が今どんな思いで福浦選手を見つめておられるのか、思っただけで胸が痛くなりそうです。

フォア・ザ・チームに徹し、真摯に野球に取り組む福浦選手を球団も最大限リスペクトする姿勢が、ファンとの一体感を生んでおり、まさに地域に密着した文化としてのプロ野球のあるべきひとつの姿を示してくれているように思えます。

筋書きのないドラマであるプロ野球において、福浦選手が今シーズン2000本安打を達成することが出来るのかどうかは、誰にも分りません。

願わくば2000本安打を達成され、千葉ロッテマリーンズのファンの方々の万雷の拍手と歓声の中で伝説(レジェンド)に昇華される、そんな福浦選手を観てみたい。

一プロ野球ファンとして、その幸せを一緒に分かち合いたい、そんな思いでいっぱいです。

(おわり)
2018/8/20

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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