衣笠祥雄氏~野球に誠実に向き合った男の一生【第94回】

衣笠祥雄氏~野球に誠実に向き合った男の一生【第94回】

2018年のプロ野球は開幕して1ヶ月以上が経過し、各チームは30試合程のゲームを消化しています。当初はここまでの序盤戦で溌剌とプレーをする若手選手の中から一人の選手を選んでご紹介する予定でしたが、4月の下旬に一人の偉大なプロ野球人の突然の訃報が入ってきたため、今回はその方を取り上げさせていただきます。その方は、プロ野球界で二人目となる国民栄誉賞を受賞された、元広島カープの衣笠祥雄氏です。

衣笠祥雄氏と言えば代名詞のように語られるのが2215試合連続出場の偉業です。誰にも成し得ない気の遠くなるような大記録の陰に隠れて、あまり大きく取り上げられてはいませんが、現役選手として積み上げられた実績は実に立派なものです。と同時に実に人間味あふれる個性派の選手でもあられたようです。

衣笠祥雄氏は1947年(昭和22年)1月生まれ、京都市のご出身で、先日4月23日にお亡くなりになられた時、享年71歳でした。京都の平安高校時代は3年生の時(1964年)に捕手として春・夏の甲子園に出場され、いずれもベスト8まで進出しておられます。高校卒業後、まだドラフト制度が始まる前でしたが、1965年に広島カープと契約され、入団されました。

入団後、当時の白石勝己監督の方針で捕手から内野手(一塁手)に転向され、主に二軍での鍛錬の時期を過ごされましたが、それでも入団当初の三年間も毎年30試合前後の一軍出場経験は積んでおられます。一方で当時の広島カープは弱小貧乏球団で監督・コーチ・主力選手と言えどもマツダ製の日本車に乗るのが関の山という時代に、無類の車好きであった衣笠青年は契約金で大型のアメリカ車を購入して乗り回すような派手な生活ぶりという一面も持っておられたようです。

そんなヤンチャな生活の一環で衣笠青年は米軍岩国基地周辺で飲み明かすことが結構あったようですが、そんなある日、親しくなった米兵の友人から「明日ベトナムへ行くんだ」と告げられ大きなショックを受けられたようです。同世代の友人が戦場へ向かおうとする時に、好きな野球をやりながら遊びまわっている自身の行動を恥じ、以降野球に真剣に取り組むようになったとご自身が述懐しておられます。入団4年目には一塁手としてほぼレギュラーの座をつかまれ、それなりの成績はあげられるようにはなられたのですが、その後最大の恩師とも言うべき関根潤三氏と出会われます。

関根氏は1970年に打撃コーチとして広島カープに入団されたのですが、当時監督であった根本陸夫氏から「衣笠をリーグを代表する打者にしてくれ」と頼まれ、そこから関根コーチと衣笠選手のマンツーマンでの過酷な練習が始まったようです。朝・昼・夜の練習が終わり、他の選手が休んだり遊びに行ったりする時間に入っても、更に宿舎の屋上でバットを振らせたそうです。あまりにも厳しい練習に耐えかね、ある晩衣笠選手は関根コーチを無視して飲みに出かけたことがあったようです。そして夜中の3時過ぎ、もうそろそろいいだろうと宿舎に帰ってくると、なんと関根コーチが玄関で待ち構えていたそうです。

そして怒りもせず「さあやるぞ」とバットを渡され、観念した衣笠選手も泣きながら朝まで素振りを続けられたようです。この時の光景を後年「プロ野球ニュース」の解説者をされていた関根潤三氏がこんな風に語っておられます。「素振りをさせた時、最初は反抗的な目をしていたのでこっちも意地になって朝まで付き合いましたよ。いやあ、あの頃はボクも若かった」。まさに意地と意地のぶつかり合いでした。しかしこの厳しい鍛錬の時期を経て、衣笠選手の代名詞ともなったフルスイングをする打撃フォームが確立され、この年(1970年)の最終盤10月19日の読売ジャイアンツ戦から長い長い連続試合出場記録が始まっています。

この時衣笠選手は満23歳、この連続試合出場記録に終止符が打たれたのは17年後の1987年のシーズン最終戦、衣笠選手40歳のシーズンでした。チームの主力となった衣笠選手は山本浩二選手と共にチームを牽引し、1975年(昭和50年)の球団創設以来の初優勝をはじめ、5度のリーグ優勝、3度の日本一に多大な貢献をし、まさに広島カープ黄金時代の立役者のお一人でした。個人表彰もベストナイン3回(1975年・1980年・1984年)、ゴールデングラブ賞3回(1980年・1984年・1986年)、MVPを1回(1984年)受賞されています。

個人タイトルも打点王、盗塁王をそれぞれ1回ずつ獲得されています。また生涯記録として、打率.270、2573安打、504本塁打、1448打点、266盗塁という記録を残されていますが、中でもホームラン数は歴代7位、安打数は歴代8位(イチロー選手をはじめ日米通算安打の打者3人も含む)という立派な記録です。ただこれだけの生涯成績の割に通算打率が少し低いようにも思えますが、当てにいくバッティングを全くせず、常にフルスイングで打席に臨んだ衣笠選手の打撃スタイルによるものと思われます。

衣笠選手を語る際に避けては通れない話題が二つあります。ひとつ目は死球(デッドボール)の話です。実は衣笠選手の現役時代の通算被死球161は日本プロ野球史上3位の記録です。ぶつけられても振舞いは常に紳士的で、怒るどころか左手で「いいよ大丈夫だから」と相手投手を気遣う仕草をしながら一塁に向かっておられました。衣笠選手は「投球が頭に当たると大変だけど、俺はラッキーなことに頭部への死球は一度もないからネ。ただカミソリシュートを持つ平松(平松政次氏・元大洋ホエールズ)にはヒゲを剃られたことがある」と語っておられます。

投球があごヒゲをかすめたことを言っておられる訳ですが、ラッキーどころか一歩間違うと大変な事態も予想される状況でも、抜群の反射神経で避ける技術を身につけておられた衣笠選手にとっては、真剣勝負のゲームの中で起こり得る普通の出来事だったのかもしれません。ご自身の著書の中で「死球は投手の投げ損ないと打者のよける技術の不足が重なったもの。怒るのは自分の責任を棚に上げ他人を責めるに等しい」と胸中を語っておられますが、この考え方が根底にあっての振舞いであったのだろうと想像されます。

そんな衣笠選手でも連続試合出場記録の継続が危ぶまれるような死球を受けたことがありました。1979年8月1日の読売ジャイアンツ戦、相手の西本聖投手から背中に死球を受け、左肩の肩甲骨骨折という負傷を負われました。この死球で乱闘騒ぎが起こり、両軍入り乱れての騒乱の中をぶつけた西本投手が謝りに近づこうとしたところ、衣笠選手は「大丈夫だ。お前は危ないからベンチに帰れ」と気遣われたようです。この時衣笠選手の連続試合出場記録は1122。ケガの状態はかなりひどく、記録もここまでか、と思われていたところ、翌日代打でバッターボックスに立ち、江川卓投手の速球を3球フルスイングして空振り三振。この時「1球目はファンの為、2球目は自分の為、3球目は西本君の為に振りました」という名言を口にされました。自身の選手生命を危うくするかもしれないような死球を受けてなお、相手の西本投手が自責の念に駆られることのないよう思いやるコメント、ここに人間・衣笠祥雄の真骨頂を見たような気がいたします。

衣笠選手を語る際に避けては通れない話題の二つ目は「江夏の21球」の裏話です。1979年の日本シリーズ・広島vs近鉄の第7戦、9回裏に抑えのエース・江夏豊投手が迎えた無死満塁の大ピンチ。後にスポーツノンフィクション作家としての山際淳司氏の名を世に広く知らしめることとなった「江夏の21球」、9回の裏に江夏投手が投じた全21球のドキュメントです。広島・近鉄のどちらが勝っても初の日本一、近鉄の監督はあの悲運の名将・西本幸雄氏です。この極限とも思える9回裏の状況で、広島ベンチは延長戦に備えてブルペンの投手に準備をさせ始めます。これに対して江夏投手は「何で俺の後に投手の準備をさせるんだ」とプライドを傷つけられ、平静な心理状況ではいられなくなります。

前年のパリーグ首位打者で左殺しの異名をとった代打の佐々木恭介選手に対する4球目、江夏の21球の通算15球目、異変を察知した一塁を守る衣笠祥雄選手がマウンドに駆け寄り、こうささやかれたそうです。「気にするな。この試合が終わってお前が辞めるなら、俺も付き合ってやる」。落ち着きを取り戻した江夏投手は佐々木選手を三振に打ち取り、続く石渡選手の2球目のスクイズを見破って三塁ランナーをアウトにし、結局石渡選手を三振に打ち取ってゲームセットになったのでした。

日本の球史に残る名場面のひとつですが、後に衣笠選手は「江夏の動揺を抑えてやりたかった。どんな言葉が欲しいだろうと考えた。どうしても勝ちたかったから」という言葉を残されています。江夏氏は後に「あの苦しい場面で自分の気持ちを理解してくれる奴が一人いたんだということが嬉しかった。あいつがいてくれたお陰で難を逃れることができた」と述懐しておられます。まさに「江夏の21球」は衣笠選手のささやかれた一言の力によって物語は紡がれたと思えます。

衣笠選手は高い身体能力を持つ優れた選手ではありましたが、私の中では広島カープ球団が育てあげた名選手という受け止め方をしています。才能を持った好素材の選手を一から鍛えあげて中心選手に育て、その選手を核とするチーム作りを行なう。そしてその選手の円熟期に優勝できるチームに仕立て上げる。まさに現在の広島東洋カープが丸佳宏選手、菊池涼介選手、鈴木誠也選手といった生え抜き選手を中心に再び黄金時代を築きつつあることを彷彿とさせてくれます。半世紀も前の衣笠選手の時代から、この考え・スタイルが脈々と受け継がれていることがよくわかりました。

衣笠選手は現役引退後、一度もコーチ・監督に就任されることはなく、生涯野球評論家としての立場を貫かれました。野球評論家としては、選手の悪口を言わず、選手ひとりひとりをリスペクトする姿勢を貫く愛情あふれる解説ぶりだったと思います。広島カープ球団はある時期、監督への就任要請をされていたようですが、ご本人が人を指導するのが大の苦手で監督の器ではないと固辞されていたという話と、監督として結果を残せなかったら球団に恥をかかせるだけでなく、国民栄誉賞にも泥を塗ってしまうことになる、というお気持ちもあったようだと伝えられています。

衣笠氏はお亡くなりになられる4日前の本年4月19日に横浜球場での横浜DeNAベイスターズvs読売ジャイアンツ戦で最後の野球解説の仕事をされています。さすがに声はかすれ、聞き取りにくい状況にはなっておられたようですが、最後の最後まで野球の現場に携わって旅立っていかれました。記録にも残っているが、それ以上に強く記憶に残る名選手であったと思われます。心よりご冥福をお祈りいたします。

(おわり)
2018/5/9

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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