村田修一選手~蘇れ!男村田 再び表舞台へ!【第91回】

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村田修一選手~蘇れ!男村田 再び表舞台へ!【第91回】

2018年のプロ野球は2月のキャンプも終了し、今はオープン戦たけなわの時期となっています。開幕へ向けて各選手は調整に余念がない日々ですが、昨シーズン終了後からその去就がずっと気になっていた一人の選手について、数日前独立リーグの球団に入団されるという形で大きく報道がなされました。昨年まで読売ジャイアンツに在籍されていた村田修一選手です。昨シーズン終了後、チームの若返りを理由に自由契約となって退団された村田選手でしたが、こんなに長い間、次の所属球団が決まらず、独立リーグの球団(栃木ゴールデンブレーブス)への入団を決意されるという形での決着は、本当に意外な展開でした。今回は村田選手のキャリアを振り返る中で、一定年齢以上のベテラン選手の処遇について考えてみたいと思います。

村田選手は1980年12月生まれの37歳・福岡県糟屋郡篠栗町のご出身で、東福岡高校時代には3年生の春夏に投手として甲子園に出場されています。1980年生まれの村田選手は俗に言うところの松坂世代ですが、春のセンバツでは横浜高校の松坂大輔投手(現中日ドラゴンズ)と投げ合って三回戦で敗退しておられます。投手として活躍される一方で高校通算で30本の本塁打も打っておられますが、日本大学進学後は「投手としては松坂(大輔)には勝てない」と考え、野手へ転向されたようです。大学通算で20本塁打(歴代2位)、リーグのベストナインに4回選ばれ、2002年のドラフト会議で、当時制度として存在した自由獲得枠によって横浜ベイスターズに入団されています。

横浜ベイスターズへの入団当初、本職は三塁手であった村田選手ですが、他の選手との兼ね合いで一時的に二塁手に挑戦されたこともありました。しかしシーズンの後半には三塁手のポジションに定着し、結局入団一年目は104試合の出場で打率は.224であったものの25本の本塁打を打ち、強打者の片鱗を見せ始めておられました。2年目・3年目は100試合以上の出場はされているものの、まだ完全にレギュラー定着という状態ではありませんでしたが、4年目の2006年にほぼ全試合に出場し、故障者の多く出たチーム状況の中で打率.266、34本塁打、114打点をマークし、チームの主力打者の立場を確固たるものとされました。

その年のシーズン終了後の日米野球では日本選抜チームのメンバーに選ばれ、第4戦では全日本の4番を任されるまでになっておられます。そして2007年・2008年と2年連続でセリーグの本塁打王を獲得される等、まさに円熟の境地に入っていかれました。併せて2008年には北京オリンピックの野球日本代表メンバーに選ばれ、2009年にも第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のメンバーに選ばれましたが、この時は第2ラウンドの韓国戦で右足太腿裏の肉離れを起こし、アメリカで行なわれた決勝戦には出場できず、無念の途中帰国をされています。

こうして横浜ベイスターズに9年間(2003~2011)在籍されましたが、優勝争いをしたいという考えを捨てきれなかったという言葉を残し、FA権を行使して読売ジャイアンツの選手としての道を選ばれました。常勝球団の主力打者としての重圧を背負いながら、ジャイアンツ入団3年目の2014年には読売ジャイアンツの第18代選手会長に選ばれています。これは投手・野手関係なく後輩を食事に連れて行くなど、日頃よりしっかりリーダーシップを発揮し、チームメイトからの信頼も厚い村田選手の姿を見ておられた、当時の原監督があえて生え抜きでない村田選手に選手会長を託したと伝えられています。

結局昨シーズンまで6年間を読売ジャイアンツで過ごされましたが、6年間のうち3シーズンで全試合出場を果たされ、主力打者としての打撃面のみならず、ジャイアンツ移籍後の6年間で三度ゴールデングラブ賞(三塁手部門・2012年、2013年、2016年)を獲得された堅実な守備でもチームに貢献してこられました。結局読売ジャイアンツでの通算6シーズンで795試合に出場し、打率.274、109本塁打、391打点という成績を残し、後進に道を譲る形で退団を余儀なくされた訳です。

村田選手の自由契約選手としての公示がなされたのは昨年12月2日でした。読売ジャイアンツの鹿取義隆GMは「チームの若返りを図る為に苦渋の決断をした。FA移籍では補償が発生する為、自由契約の方が選択肢が広がる。これだけ貢献してくれた選手に対するせめてもの誠意」という趣旨のことを述べられ、村田選手も鹿取GMの説明に納得されたと報道では伝えられました。

即ち他球団には村田選手獲得に理屈上は何の障害もなく、金額も言い値で取れるはずなので、私はどこかの球団が手を挙げ、すぐにでも移籍先が決まるのだろうなと思っていました。ところが年が明けても決まらず、キャンプが始まっても正式なオファーはなく、とうとうこの時期に至ってしまったようです。そして今回村田選手が入団を決めた独立リーグも3月10日頃にはキャンプが始まるようで、自由契約の公示後に最初に声をかけてくれた栃木ゴールデンブレーブスのチーム編成上も、これ以上は引き延ばせないというのが、今回の入団発表となった背景のようです。

村田選手ほどの実績を積んできた選手、しかもお金に関する障害もほとんどない選手の移籍がこうも決まらないものなのか、正直不思議に思って色々調べてみたところ、真相はよくわかりませんが、なんとなく二つの理由に行きついたような気がします。ひとつは村田選手の三塁手というポジション、もうひとつは各チームの若返りへの動きです。ひとつ目のポジションは、詳細は省きますが、確かに各球団とも三塁手を獲得せねばならないという必然性は薄そうなことがわかりました。更に大きいのは各チームの若返りを指向する動きです。

実は3年前セリーグを制覇した東京ヤクルトスワローズが昨年大惨敗を喫し、優勝した当時のレギュラー三塁手であった川端慎吾選手がケガで昨シーズンを棒に振っています。このチームなら繋ぎの三塁手としてでも村田選手の活躍の余地はあるのでは、と思えるのですが、今シーズンより再び監督として復帰された小川監督はこんなことを言っておられます。

「村田選手がチームに入れば間違いなく戦力になるし、いれば使いたくなります。しかしそうすると若い選手(廣岡大志選手、西浦直享選手、藤井亮太選手、奥村展征選手など)たちに出場機会を与えることが難しくなってしまいます。彼らに力をつけさせる環境をつくることが僕の仕事だと思っていますし、チームの将来を見据えると獲得は見送るのがいいのかなと・・・」という趣旨の発言をされました。

年齢を重ねるということは、経験を積み上げているということであると同時に、全盛期と比較するとパフォーマンスも落ち始めているということかもしれません。永遠に現役選手であることがない以上、キャリアの終焉はどんな選手にも間違いなく刻々と近づいています。一方でチームづくりは永遠に続いていきます。数年後から10年後を見据えたチーム強化策を考え続けるのがフロントの仕事であり、監督・コーチもその役割の一端を担っています。そう考えると、ある段階からは終焉の近づいたベテラン選手に頼らないチームづくりをすることが必要になってきます。今回の村田選手は、まさにその狭間にスッポリはまり込んだように思えてきました。

ある年齢以上になると中心戦力としては頼らないが、しかしある領域では間違いなく戦力となり得る技能(得意技)で勝負していくことが必須なのかもしれません。それは守備のスペシャリスト、代打の切り札、ワンポイントリリーフ等々、レギュラーとして試合に出続けることはないかもしれないが、しかしチームにとっては絶対必要なワンピース、それに応じて報酬も見合う形に変化していく、ということなのかもしれません。

こんなことを考えているところに飛び込んできたのがイチロー選手の古巣シアトル・マリナーズへの復帰のニュースでした。マリナーズは外野のレギュラー陣に故障者が続出しているようで戦力としてもイチロー選手を必要としているようですが、最初に報じられた報道によると、年俸はメジャー最低保障の54万5000ドル(約5780万円)プラス出来高払いというものでした。(その後の報道では、75万ドル(約8000万円)プラス出来高払いとなっていました)どちらにしろ球団にとってはかなり低リスクの契約です。イチロー選手が希望しておられる50歳でのメジャーリーガーの夢がかなうまで、一定以上の成績をあげても毎年このレベルの契約が続いていくのかなと想像されます。しかしこれがある年齢以上のベテラン選手が厳しいプロの世界を生き抜いていくひとつの道なのではないかとも思えます。

村田選手は独立リーグの栃木ゴールデンブレーブス入団後も、NPB(日本野球機構)の支配下登録期限である本年7月31日までNPB12球団からのオファーを待ち続ける覚悟のようです。チーム事情から村田選手に声を掛けざるを得ない球団が出てくるまで、独立リーグでの試合と練習を通じて再登場できる準備を怠りなく続けていただきたいものです。

村田選手の独立リーグへの移籍が報道された日、同じ歳の阪神タイガース・藤川球児投手がこんなコメントを寄せられました。「自分の野球人生がどうあるべきか、どう歩いていくかという意味で、村田は間違いなくいい方向に進むと思う。フリーでオファーを待ったり、プライドが邪魔していないところがいい」。自らも米国から戻って阪神タイガースに再入団される前、四国の独立リーグのチームでプレーした藤川投手ならではの言葉と思われます。

甦れ!村田修一。日本中のプロ野球ファンが君の勇姿を待っている!

(おわり)
2018/3/9

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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