上田利治氏~熱き名将を心より悼む【第79回】

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上田利治氏~熱き名将を心より悼む【第79回】

2017年のプロ野球は前半・後半の区切りとなるオールスター戦を迎えようとする中で熱戦が繰り広げられていますが、先日名将と謳われたお一人の野球人が享年80歳で静かに旅立たれました。今回はその方を偲ぶ中で、マネジメントのあり方に思いを寄せてみたいと思います。

その名将のお名前は阪急ブレーブス、オリックス・ブレーブス、日本ハムファイターズで通算20シーズン、監督として采配を振るわれた上田利治氏です。

日本のプロ野球では今もコーチ・監督に就任するにあたっては、現役時代の成績がかなりな重みをもって重視されていると思わざるを得ませんが、上田利治氏はプロ野球の現役選手(ポジションは捕手)としての実績をほとんど持たずに監督を務められた、極めて稀有な経歴をお持ちの方です。

お生まれは1937年(昭和12年)1月、徳島県海部郡宍喰町(現海陽町)のご出身で徳島県立海南高校(後にプロゴルファーとなられた尾崎将司氏が投手として1964年春の甲子園で全国制覇を成し遂げられた高校・現在は廃校)から関西大学法学部に進学されています。ご本人は将来弁護士を志望されていたようで、野球部の推薦入試を断わって一般入試で入学されたようです。

大学時代には後にプロ野球を代表する大投手となられた阪神タイガースの村山実氏とバッテリーを組み、大いに活躍されました。大学2年生の時の1956年(昭和31年)には全日本大学野球選手権でも初優勝を成し遂げられましたが、これは当時西日本地区の大学が優勝した初めての事例であったようです。翌年・翌々年は全盛期の立教大学にいずれも準決勝で敗れる結果となられていますが、翌年の立教大学の中心選手が後のミスタープロ野球・長嶋茂雄氏です。

まだドラフト制度の始まる前の時代ですが、大学卒業時にプロに進むべきか否か、上田氏には迷いがあったようです。ただ「東洋工業(現マツダ株式会社)からの出向社員として3~4年プレーし、その後は東洋工業で」との条件まで出して熱心に口説いてくれたこともあって、広島カープの誘いに応じ1959年に入団されています。

入団1年目は捕手として53試合の先発出場もされていますが、以降は肩を壊したこともあって出場機会も減少し、結局3年間で現役生活を引退されています。ちなみにですが、現役3年間で121試合に出場して257打数56安打、打率.218・17打点・2本塁打というのが上田選手としての全成績でした。

現役引退後は東洋工業への復帰を願い出られたようですが、3年間の現役生活の中で見せた卓越した分析力を見込まれ、専任コーチを要請され、1962年にプロ野球史上最年少の25歳で広島カープの二軍コーチに就任されました。翌年には一軍コーチに就任され1969年のシーズン終了まで8年間にわたって広島カープのコーチを務められましたが、最後は当時の根本睦夫監督とチームの強化方針をめぐって意見が対立し、退団されたようです。

上田氏が広島カープのコーチから身を引かれた翌年の1970年、米国メジャーリーグのシンシナティ・レッズで一人の無名の36歳の若手監督が就任されています。後にメジャーリーグ屈指の名将と謳われるスパーキー・アンダーソン監督(1984年に史上初の両リーグでのワールドチャンピオン監督となった。2000年には米国の野球殿堂入り)ですが、監督1年目に102勝をあげてリーグ優勝、ワールドシリーズにも進出されています。

ただこのアンダーソン監督はメジャーリーグの現役選手としてのキャリアは1954年フィラデルフィア・フィリーズの1年間だけで、野球人生の大半をマイナー選手として過ごされた方です。こういった点が上田氏と極めて似ていることに引かれたのか、上田氏は早くからこの監督に注目され、広島のコーチを辞された後には自費でアメリカへ渡り、アンダーソン監督の采配をつぶさに研究する時間を持たれたようです。後に上田氏ご自身がアンダーソン監督の選手起用、試合運びに多大な影響を受けたと語っておられます。

そして一年間の充電期間を経て1971年から阪急ブレーブスにヘッドコーチとして迎えられ、ここで闘将西本幸雄監督と出会われます。まさにV9時代の読売ジャイアンツに何度もはね返され、西本監督が「悲運の名将」と言われたあの時代です。西本監督は1973年にリーグ優勝を逃して自ら退任された訳ですが、その後任として1974年より37歳の若さで監督に就任されることになりました。

ただ37歳は監督就任年齢としては確かに若いのですが、その時点で既にコーチとして11年間の経験を積んでおられた訳で、見方を変えれば満を持しての就任とも言えますし、生え抜きを登用する例が多かった当時のプロ野球界の慣行を破って、外様のしかも選手実績の乏しい上田監督が登用されたところに、指導者としての力量がしっかり認識されていたことが窺われます。
 
上田監督は就任2年目の1975年から1977年にかけて日本シリーズ三連覇を達成されます。1975年は広島カープを破っての初の日本一、1976年・77年は長嶋監督率いる読売ジャイアンツを破っての三連覇でした。特に1976年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、第1戦から一気の3連勝で王手をかけるも、どこかで気の緩みが出たのか第4戦で逆転負けすると第5戦も連敗、第6戦は舞台が再び敵地の後楽園球場へ移って、7点差を追いつかれて延長10回サヨナラ負け、宿舎へ戻るバスの中では選手から戦闘意欲がもはや無くなってしまったかのように、くたびれ果てた状態だったようです。その時に宿舎で行なわれたミーティングで上田監督はこんなことを言われたそうです。

「君らはどこにも負けないメンツだ。明日は思い切っていこう。今晩は麻雀をやるも良し、飲みに行くのも自由。元気よく明日の9時半に集まってくれ。ただしスポーツ新聞とテレビは見るなよ。」
翌朝選手の顔つきが変わっていたそうです。

ゲームはいったん逆転された試合を再逆転し、パリーグのチームすべてにとっての悲願であった読売ジャイアンツを倒しての日本一を成し遂げられました。翌1977年は4勝1敗の完勝で読売ジャイアンツを破っての三連覇達成でした。そして更に翌年1978年もリーグ四連覇は果たされましたが、日本シリーズはセリーグ覇者のヤクルトスワローズに破れ去りました。更にこの日本シリ―ズの第7戦でヤクルト大杉選手のホームランをめぐって1時間19分にわたる抗議を行ない、この混乱の責任をとって辞任されました。

今回の上田監督の訃報に対し、何人もの球界関係者のコメントを読ませていただきましたが、上田監督のもとで選手として共に戦った経験を持つ方々は、異口同音にユニフォームを着た時の厳しさは凄まじかったと言われています。

北海道日本ハムファイターズで現在打撃コーチをされている金子誠コーチは「今の選手には耐えられないぐらい、4倍ぐらいの練習をやっていた」と語っておられますし、現在オリックス・バファローズの監督である福良淳一監督は「地獄のような練習だった」と述懐されています。

しかし一方で上田監督のもとで一緒に戦った方々は、自分の今日があるのはベースを作ってもらった上田監督のお陰と語られていることがとても印象的でした。これはユニフォームをいったん脱ぐと、たとえ結果の出ていない選手にも分け隔てなく普通に接するという、裏表のない姿勢が人間・上田監督の魅力を作り出し、人を引きつけておられたのだと思います。

一方で前述したようにスパーキー・アンダーソン監督の采配を研究する為にアメリカまで行かれたことでもわかるように、野球に対する情報収集、研究心も凄まじいものがあったようです。こうした探求心も選手を引きつける魅力のひとつとなっていたに違いありません。

選手実績が極めて少なかった上田監督は選手を指導する際「オレは出来んかったけどお前なら出来る」と声を掛けるのが常だったそうですし、選手の練習を見る際もただ見守るだけでなく、盛んに声を掛け、いいプレーには「ええで、ええで」と関西弁で励ましながら、一方で冷徹な目で選手の能力・力量を見定める指揮官でもあったようです。

監督就任後5年間で4回のリーグ制覇、3回の日本一を成し遂げられた上田監督でしたが、1978年の辞任の2年後に再び監督として復帰して10年間、1995年からは5年間日本ハムファイターズでも指揮をとられました。

最初の5年間ほどの成果はあげられませんでしたが、通算20年間の監督生活で1322勝1136敗116分、リーグ優勝5回、日本一3回、Aクラス14回(うち2位8回)という成績をあげておられます。(ちなみに1322勝は歴代7位)数多くの個性的な名選手を育てられたという点でも球史に残る名監督のお一人であったと言ってよいと思います。

監督生活を通じて上田監督という方は試合に負けた時でも潔くインタビューに応じる方だったようですが、よくこんなことを言っておられたそうです。

「勝った時は選手に聞いてやってくれ。その代わり負けた時は俺が何でも話す。選手はそっとしておいてくれや」。

試合の結果に対する責任はすべて自分が背負うという覚悟が見てとれます。この姿勢にこそ人はついていくのだと思いますし、現代のビジネスの世界でのマネジメントにもそのまま通用するように思われます。

上田監督は2003年に野球殿堂入りを果たされましたが、その時こんな趣旨のコメントを残されました。

「小さな白球が大きな感動を呼びます。そんな野球に関わり続けることが出来たこと、それが私の最高の宝物です」。

心よりご冥福をお祈りすると共に、日本のプロ野球の益々の発展を願ってやみません。

(おわり)
2017/7/10

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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