鈴木尚広選手~駆け抜けた、走塁のスペシャリスト【第73回】

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鈴木尚広選手~駆け抜けた、走塁のスペシャリスト【第73回】

2017年のプロ野球は開幕を間近に控え、今オープン戦の真盛りです。ベテラン選手にとっては開幕へ向けての調整の場ですが、若手の選手にとっては開幕一軍メンバー入り、開幕スタメンをかけての必死の戦いが続いています。一方で昨シーズンをもって選手生活に区切りをつけ引退された選手も何人もおられます。今回はそんな選手の中からお一人を取りあげさせていただきます。

昨シーズンをもって引退された主な選手には、日本シリーズでの最後の登板が印象に残る広島東洋カープの黒田博樹投手、横浜大洋ホエールズの時代から横浜一筋25年のプロ生活に別れを告げた「ハマの番長」こと横浜DeNAベイスターズの三浦大輔投手、晩年は中継ぎ投手として新境地を開かれた阪神タイガースの福原忍投手、野手では渋い存在感を発揮し続けた千葉ロッテマリーンズのサブロー選手、足のスペシャリストとして大いに活躍された読売ジャイアンツの鈴木尚広(タカヒロ)選手etcがおられますが、今回はその中から鈴木尚広選手を取りあげさせていただきます。

鈴木尚広選手は1978年4月生まれ・福島県相馬市のご出身でまもなく39歳になられます。福島県立相馬高校では遊撃手や控え投手をされていたようですが、甲子園への出場経験はなく全国的に名を知られた選手ではなかったようです。それでも1996年秋のドラフト会議では読売ジャイアンツから4位指名を受け、入団されています。

入団時から走力を高く評価されていた右投右打の内野手でしたが、入団後は走力を生かす為に左打ちも始められました。しかし故障しやすい体質だったこともあってプレーと離脱を繰り返し、当初の5年間を鍛錬に費やした後、初めて一軍選手としてプレーをされたのは入団6年目の2002年でした。

一軍選手としての実質初年度であった2002年は代走を中心に30試合出場、打席に立ったのは8度、安打は2本、4盗塁という成績でしたが、翌2003年にはレギュラーであった仁志敏久選手の故障もあって、二塁手兼外野手として104試合に出場され、18盗塁を記録しておられます。この18盗塁はチームトップの成績でしたが、以降2009年まで7シーズン連続でチームトップの盗塁数を記録され、チーム内での「走塁の鈴木」としての立場を確固たるものとされました。

そうした中、2008年には前半は代走や守備固め中心の出場だったものの、7月からは1番に定着され、8月からのチームの快進撃(7月まで首位を独走していた阪神タイガースを追い上げ、最後の最後で大逆転のリーグ制覇)に貢献、ご自身初のタイトルとなるゴールデングラブ賞を受賞されています。

実働15年間のプロ生活を読売ジャイアンツ一筋で過ごされ、その間で通算228盗塁を記録されていますが、うち132盗塁は代走での記録です。ちなみにこの132盗塁はNPB記録だそうです。また一度も規定打席に到達せず200盗塁を成し遂げたのは鈴木選手が初めてのようです。そして生涯の通算盗塁成功率.829は、200盗塁以上を記録した歴代選手の中でもトップの記録であり、この記録こそ単に足が速いだけでなく、確かな技術に裏打ちされていることを端的に物語っているものと思われます。

鈴木選手の走塁は二塁ベースに滑り込むスライディングの際に、「滑る」のではなく至近距離から「跳ぶ」ように行なう独特の技術を備えていると言われているようですし、併せてトップスピードに至るまでの早さという点にも大きな特徴があるようです。

こうした技術的な裏付けは長年に渡る、考え抜かれたトレーニングによって培われたもののようですが、鈴木選手はご自身が行なってきたトレーニングについて、こんなことを語っておられます。

最初の頃はウェイトトレーニングで体を大きくする為にアウターマッスルを鍛えておられたようですが、ただそれだけではケガも多くなってしまう為、体の中の筋肉、即ちインナーマッスルを鍛えるようになられたようです。そして現役の最後の3年あたりになると自分の体を滑らかに動かすトレーニングが中心になっていったとのことです。

「体を滑らかに動かす」というのは、鈴木選手の言葉を借りれば、自分の体の中で体の動かし方を想定し、イメージ通りに滑らかに動かせるように細分化していくことだそうです。そしてそれは筋肉だけではなく、自分を動きやすくする為の神経を作っていくトレーニングでもあったと述べておられます。自分の体を滑らかに動かす体幹トレーニングや安定したブレのない走り方の出来る体作りを、ほぼ毎日全体練習の始まる前の2時間継続してやり続けて来られたようです。

こうした地道なトレーニングこそ、走塁を中心に据えた自らのプレースタイルを貫き通す鈴木選手の生き方そのものであったのだと思われます。鈴木選手は、走塁で必要とされる人間になれば必ず一軍に残れると思い、ある程度バッティングは捨ててでも走ることを上に上に伸ばしていこうと考えていたと述べておられます。

この境地にたどり着くまでには心の中で様々な葛藤があったであろうことは間違いないと思われますが、試合を決めかねない大事な場面での「ピンチランナー・鈴木尚広」の場内アナウンスに、何かが起こるかもしれないと期待する満員のジャイアンツファンの大歓声こそ、自らの生きる道を決めた鈴木選手の矜持であったと思われます。

スペシャリストがスペシャリストとして存在価値を発揮できる為には、二つの条件が必要と思われます。ひとつは、スペシャリストの技術が誰もが認める突き抜けたものであること、もうひとつはその技術を積極的に活用しようという使う側の意志が明確なことです。

今年の2月24日(金)の日本経済新聞・朝刊最終面の「交遊抄」の中で鈴木尚広氏はこんなことを書かれています。

2002年の西武ライオンズとの日本シリーズの前、当時読売ジャイアンツの監督であった原辰徳氏から「お前の足に期待している。しっかりやってくれ」と言われたそうです。2002年は鈴木選手の実質的なプロデビューの年、シーズン8回盗塁を試みて4回アウトになっている、それ程期待されている選手とは思っていなかった自分への監督の一言で心がふと軽くなったそうです。

「監督に見てもらえている、信じてもらえているという喜び」、盗塁の成否が精神的な余裕にかかっていることを知るのはずっと後になってからではあったようですが、鈴木選手は監督の一言で本当の意味でプロ人生のスタートが切れたと思うと述懐しておられます。そしてこの日本シリーズでも2盗塁を決められたようです。

鈴木選手はこの時、スペシャリストの技を積極的に活用しようという明確な意志を持った指揮官と出会うことが出来たのです。原監督は自らの機動力野球の重要なピースとして鈴木選手を積極的に活用し、2015年のオールスター戦にも監督推薦で鈴木選手を選出しておられます。使う側と使われる側の関係性の中で、原監督と鈴木選手はとても幸せな関係を作り上げることの出来た実例のように思われます。

評価すべき立場の管理者(監督)が部下(選手)を正当に評価し、部下(選手)はそれに応えようとすることで更に技量を上げていく、そして部下(選手)の試み・努力が成功することで組織全体の活性化や目的達成への貢献にも間違いなくつながるはずです。

組織は主役ばかりでは成り立ちません。一芸に秀でたスペシャリストたる脇役を組織の目的達成(勝利)の為にいかに活用するか、まさに組織マネジメントそのものであるように思えます。

第三者としての目線で見ても、鈴木尚広選手は良き指揮官の下で幸せな野球人生を全うされたように思われます。昨シーズンの引退をもって、いったん読売ジャイアンツ球団からも離れられましたが、近い将来、今度は走塁コーチのような形で後進の指導にあたられるべく、現場復帰を果たしていただきたいものです。長い間ご苦労様でした。次のステージでのご活躍を心よりお祈りしたいと思います。 

(おわり)
2017/3/13

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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