ダリル・スペンサー氏~野球の宣教師に思いを馳せる【第72回】

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ダリル・スペンサー氏~野球の宣教師に思いを馳せる【第72回】

今年(2017年)の年明け早々、新聞のスポーツ面に小さな訃報記事が載りました。「元阪急ブレーブス・スペンサー氏死去88歳」という小さい記事でしたが、その記事を見た時、私の脳裏には走馬灯のようにスペンサー選手のガッツ溢れるプレーが浮かんできました。

団塊の世代である私が中学生・高校生の頃のプレーヤーですから、もう遠い過去の選手ではあるのですが、野球評論家の野村克也氏は「日本のプロ野球を変えたのはスペンサーだ」と色々なメディアを通じて何度も語っておられます。という訳で今回は故スペンサー選手が日本のプロ野球にどんな影響を与えたのか、をご紹介したいと思います。

スペンサー氏は本名ダリル・スペンサー、米国カンザス州ウィチタのご出身で、1928年(昭和3年)7月生まれ、本年1月2日に満88歳でお亡くなりになっています。190センチ・90キロの大柄な内野手でしたが、1949年(昭和24年)にプロ入りし、1952年(昭和27年)9月にニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)でメジャーデビュー、以降セントルイス・カージナルス、ロサンゼルス・ドジャーズ、シンシナティ・レッズの各球団でプレーし、1964年(昭和39年)に阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)に入団されています。

スペンサー選手が入団された1964年は西本幸雄監督が監督に就任された2年目で、チーム自体がパリーグのお荷物と揶揄される弱小チームでした。(西本幸雄監督については、当シリーズの第36回「昭和の名将を偲ぶ」もご参照下さい)こんなチームの中で来日初年度から36本塁打と打ちまくり、長池徳士選手と共にチームの主砲として活躍されました。来日2年目の1965年は更に打撃が好調で、当時パリーグの最強打者であった南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の野村克也選手と激しい三冠王争いをされていたようです。

ただ当時は第二次世界大戦の終結からまだ20年しかたっておらず、他チームであろうと外国人選手にタイトルは取らせたくないという風潮が強く、8月半ばにはタイトル争いとは全く無関係であった東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)投手陣から8打席連続で歩かされるといったこともあったようです。この時はしびれを切らしたスペンサー選手が次の打席で敬遠のボールを無理矢理打ちに行き、連続四球は8打席で終わったようです。

又シーズン終盤の10月初旬に戦いの当事者である野村克也氏の南海ホークスと戦った際には、バットのグリップとヘッドを逆さまに構えて打席に立つという無言の抗議を試みられたこともあったそうですが、この打席も敬遠四球だったそうです。しかしこの勝負は、スペンサー選手が球場へ通う為に乗っていたバイクが交通事故に巻き込まれたことで左足を骨折、欠場を余儀なくされたことで決着し、野村克也選手が戦後初の三冠王に輝いておられます。

このように豪快な打撃と併殺打を阻止する為の二塁への猛烈なスライディング、捕手を吹き飛ばしてしまうような本塁への突入と、闘志溢れる荒々しいイメージの浮かぶ選手でした(今はコリジョンルールで禁止されていますが・・)が、一方でベンチでは相手投手の球種を一球一球メモをし、相手投手のクセを見抜く名人・天才でもあったようです。野村克也氏に言わせると、人には見えないクセがスペンサー選手には見えていたのだそうです。

スペンサー選手の記すメモはチーム内に大きな影響を与え、中でも同じ右打者である主砲の長池徳士選手、後に通算代打ホームラン27本の記録を打ち立てる高井保弘選手といった方々に多大な影響を与えたようです。当時のことを高井保弘選手はこんな風に語っておられます。「これがホンマのプロやと思いました。スペンサーはなにしろ投手が投げるたびにメモをとるんやから。そこまでするか、と私はカミナリにでも打たれたような気分でした。それからです、私が相手投手のクセを盗むようになったのは・・・・」 高井選手も現役時代クセ盗みの名人と言われたそうですが、まるで顕微鏡でも覗くかのように相手投手のフォームや投球動作を凝視し始めたのは、スペンサー選手との出会いがきっかけだったようです。

一方で、今では当たり前の事になっていますが、相手打者の傾向やクセを把握し、状況に応じて細かく守備位置を変えるスペンサー選手の動きがチーム内の他の選手のみならず、他球団の選手にも影響を及ぼしていったようです。進塁打、状況を考えての走塁、中継プレーでのカットマンの役割etc、野球は「打って投げて走る」単純なスポーツではなく、まさに頭脳が必要とされるスポーツであることを意識付けたという点で、日本の球界全体にも大きな影響を与えたようです。

スペンサー選手が来日して4年目の1967年、阪急ブレーブスは球団創設32年目にして初のリーグ制覇を成し遂げますが、当時チームを率いた西本監督の地道な努力と共にスペンサー選手が実践で持ち込んだ考える野球がチームに根付き始めた結果と言えるのかもしれません。この初優勝から阪急ブレーブスはパリーグの強豪チームとして黄金時代を歩み始めることになったのです。

話は少しそれますが、スペンサー選手が日本でプレーをしたほぼ同時期、南海ホークスにドン・ブレイザー(本名ドン・リー・ブラッシングゲーム)という選手(引退後、短期間でしたが、阪神タイガース、南海ホークスの監督にも就任されました)が在籍していました。スペンサー選手と同じ二塁手として活躍した選手ですが、この選手も日本のプロ野球の近代化に「考える」要素を持ち込んだという点で多大な影響をもたらした選手だったようです。

野村克也氏がこんな実例をあげておられます。ブレイザー選手が南海ホークスに入団する前の時期あたりまでは、各球団ごとにベースカバーの形がほぼ決まっており、二塁ベースに入るのはある球団は二塁手、ある球団は遊撃手という形で固定されていたようです。しかし今の時代から考えてみるとまことに妙な話で、例えば1死一塁でエンドランのサインが出た場合、二塁ベースに入るのが二塁手と分かっていれば打者は意図的に一・二塁間を狙うでしょうし、遊撃手が二塁ベースに入ると分かっておれば当然三遊間を狙います。しかし当時の日本のプロ野球の大半のチームはそのことに気づかず、同じスタイルで守っていたそうです。

今から考えれば俄かには信じられないような話ですが、それが当時の日本のプロ野球の現実だったようです。野村克也氏は、もしスペンサー選手やブレイザー選手がいなかったら、日本のプロ野球は精神野球の域をなかなか脱せず、日本の野球は相当遅れていたかもしれないと語っておられます。当時の強かった南海ホークスでも「打てなかったら、ぶつかってでも塁に出ろ」というようなことが雰囲気としてまかり通っていたそうです。そういう意味では、スペンサー選手、ブレイザー選手は日本のプロ野球の発展において宣教師のような役割を果たしたと言えるのかもしれません。

日本の国全体がまだ成長段階にあり、モノが不足気味であることが常態化していた時代には「いいものを作れば売れる」という考え方が幅を利かせていたのかもしれませんが、今は買い手の細かいニーズを的確にとらえ、商品・サービスに付加価値や欲しいと思わせる魅力を付け加えないと売れない時代になっています。

「投手が投げる、打者は来た球を打つ」というレベルの野球に、マーケティング理論や経営管理手法に相当するものを持ち込んでくれたのがスペンサー選手であり、ブレイザー選手であったようにも思えます。そういう意味では彼らが日本の野球の近代化・進化に果たしてくれた役割はとてつもなく大きく、それはかつての日本の経営者たちに少なからず影響を与えたと言われるピーター・ドラッカー博士やフィリップ・コトラー博士にも匹敵する存在であったのかと思えてきました。

スペンサー選手が最初に日本にやってきてから半世紀が経過し、日本の選手がメジャーリーグで活躍することに何の違和感も感じなくなっていますが、日本のプロ野球の発展の歴史の一コマにこんな宣教師のような先人がいたことを記憶に留めたいものです。ありがとう!スペンサー選手、心よりご冥福をお祈りいたします。

(おわり)
2017/2/20

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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