栗山英樹監督~決める・任せる、リーダーの覚悟【第64回】

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栗山英樹監督~決める・任せる、リーダーの覚悟【第64回】

2016年のプロ野球もいよいよ大詰めが近づいてきました。セリーグでは8月24日に広島東洋カープに優勝マジック20が点灯し、着々とその数を減らしています。一方のパリーグは、昨年の覇者である福岡ソフトバンクホークスが無人の野を行くがごとくの強さを発揮していましたが、夏場になって少しモタモタしている間に北海道日本ハムファイターズが急追し、一度は首位が逆転するまでの事態となりました。

この両チームの戦いは最後の最後まで全く目が離せなくなりましたが、最大11.5ゲームも差が開いていたチームを追いつくところまで押し上げた、北海道日本ハムファイターズの栗山英樹監督はどんな方針、どんなお考えの元にチームを率いておられるのか、俄然興味が湧いてきました。という訳で今回は、北海道日本ハムファイターズの栗山英樹監督を取りあげさせていただきます。

栗山監督は1961年4月生まれの55歳、東京都小平市のご出身で、創価高校・東京学芸大学を経て、ドラフト外のテスト入団でヤクルトスワローズに入団されました。入団1年目の1984年に2試合だけですが一軍デビューも果たされています。2年目には内野手から外野手へ、俊足を生かしてのスイッチヒッターへの転向も試み、猛練習の結果3年目の後半には1番中堅手としてレギュラーの座をつかみ取っておられます。ただ一方でプロ2年目から平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになり、栗山監督の現役時代はこのメニエール病との闘いでもあったようです。

6年目の1989年には主に2番・中堅手として開幕からレギュラーに定着し、初の規定打席に到達し、守備範囲の広さ・守備力の高さを評価されてゴールデングラブ賞も獲得されました。入団当初から体力的・技術的な差を猛練習で補いレギュラーの座を勝ち取った栗山選手ですが、原因不明のメニエール病で猛練習の機会を手放さざるを得なかったことが選手生命を縮めてしまったようで、結局494試合出場、336安打・67打点・通算打率.279の成績を残し、1990年のシーズンオフをもって7年間の短い現役生活に29歳で別れを告げておられます。

引退後は野球解説者・スポーツキャスターとして活躍されるかたわら、母校の東京学芸大学で講師を務め、少年野球の普及育成活動にも力を注いでこられした。更に2004年から助教授として関わっておられた白鴎大学で2008年からは経営学部の教授に昇進され、スポーツメディア論を研究対象としてこられたようです。現在は北海道日本ハムファイターズの監督業のため休職中という扱いになっているようで、今も籍は残されているようです。

そして2011年の11月、北海道日本ハムファイターズから監督就任の要請を受け、2年契約で就任されました。現役引退後はコーチとしての経験もなく、しかも絶対的エースであったダルビッシュ有投手がメジャーリーグのテキサス・レンジャーズへ移籍されたこともあり、監督1年目の2012年は苦戦が予想されていましたが、豈図らんや74勝59敗11分でリーグ優勝をしてしまわれました。日本シリーズでは読売ジャイアンツに負けたものの、就任1年目としては大きな成果を挙げられました。

ただし2年目の2013年は64勝78敗2分で最下位。この間の経緯を栗山監督ご自身が、1年目はあまりにも分からないことが多すぎて経験豊富なコーチの言うことにゴーサインを出すばかりだったが、2年目は少し周りのことも見えるようになってすべてを自分でやろうとした結果、自分ではなんとかこなしているつもりだったが、ピッチャーの交代や守備位置の変更指示までことごとく判断が遅れていたのだろうし、それがこの成績でした、と述べておられます。その後3年目は73勝68敗3分の3位、4年目は79勝62敗2分で2位と、優勝には届いていないものの、現場責任者としての栗山監督は着実に成長しておられるように見受けられます。

そして今シーズンですが、春先はなかなか調子が上がらず、4月末時点では借金2という状態でしたが、5月・6月と徐々に調子を上げ、交流戦の終盤から怒濤の15連勝、その連勝が途絶えた後も二度にわたる5連勝で一気に福岡ソフトバンクホークスを射程に捉える位置にまで浮上してこられた訳です。

栗山監督は、プロ野球の球団組織のあり方・役割を考えた時、イメージに一番近いのは小学校のクラスにおける係活動ではないかと述べておられます。生物係や図書係といった、あの係活動です。それぞれが何か役割を担っている訳で、誰が偉いとか立場が上位といった概念はそこにはありません。では監督は何の係を担当しているのかと言うと、実際の小学校にそんな係があるかどうかはともかく、監督は最後に「決める係」なのだと言い切っておられます。更にコーチとの関係性についても、1年目優勝・2年目最下位を経験し、もう1年試行錯誤をする中で、3年間監督を経験してみて「やっぱり任せるべきだ」ということがようやく分かったと述べておられます。

投手交代や守備位置も基本的にはコーチの進言を受け入れておられるようで、勝負どころと踏んだ場面で意見が割れた時に「悪いけどこうさせてくれ」と押し切ることも皆無ではないようですが、そう滅多にあることではないとのことです。そして「任せないと人は必死に考えてくれない」ということもよく分かったとも述べておられます。ここ一番というところ以外は口を出さずに我慢する、そのことによってみんなが一生懸命考えてくれるようになるとのことです。自分のせいで負けるかもしれないと思うからこそ必死にもなる、人間ってそんなものじゃないでしょうかと語っておられます。ただしコーチの進言が裏目に出て負けることもある訳ですが、それは最後に決めた監督の責任であり、これこそまさに「決める係」の役割なのだと思われます。

こんな栗山監督ですからコーチとはかなり密接にコミュニケーションをとっておられるようですし、選手とも近づき過ぎない距離感の中で、栗山監督の方針・考え方を浸透させることを通じてしっかりコミュニケーションをとっておられるように見受けられます。今シーズンの北海道日本ハムファイターズにおいて非常に印象に残る出来事がありました。シーズンが始まった時、このチームの抑えのエースは増井浩俊投手でした。昨年も39セーブをあげ、まさにリーグを代表する抑え投手のひとりでもありました。ところがシーズンが始まるとなかなか調子が上がらず、セーブはついても実は点も取られているという状況が続き、5月の初めに一度登録抹消、その後戻ってきて抑えを務めるもピリッとせず、怒濤の15連勝の最初の1勝目(交流戦の中日戦)も9回3点差で登板した増井投手が2点をとられ、マーティン投手の助けを借りての薄氷の1勝でした。

そして二度目の登録抹消。その後チームは抑えにマーティン投手を据えての連戦連勝が始まっています。ファームの練習場で増井投手がどんな思いでチームの連戦連勝を見つめておられたか、心中察するものがあります。ところが8月になって、この増井投手が先発投手としてマウンドに戻ってきたのです。シーズン途中でリリーフの抑えから先発への役割変更、試合に臨む調整方法をはじめ何から何までがすべて違うはずです。しかし増井投手は既に8月に四度登板し、28回3分の1イニングを投げてトータル4失点、2勝1敗の見事な成績をあげておられます。

2勝目をあげた8月25日のロッテ戦はプロ入り7年目にして初めての完投勝利でしたが、そのヒーローインタビューのお立ち台で、シーズン途中の抑えから先発への転向に「最初は葛藤がありましたが、今はもう吹っ切れました」と語っておられます。栗山監督が増井投手にどんな形でコミュニケーションをとられたのか、投手コーチがどんな話合いで技術面の修正を図られたのか、詳しい内容はわかりませんが、この増井投手の一件が、優勝へ向けての栗山監督のチームづくり、チームコントロールのあり方を端的に表しているように思えてなりません。

8月末時点で残り20数試合となったパリーグ二強の戦い、この両チームの直接対決はあと2試合しか残っていませんから、お互いに相手を横目で睨みながらの神経戦のような戦いが続いていくものと思われます。ペナントレースからクライマックスシリーズへ、どんな戦いが続いていくのか、このハイレベルな戦いを心から楽しませていただこうと思います。

(おわり)
2016/08/31

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 〈 参考文献:栗山英樹・著「未徹在
ミテツザイ
」 〉

筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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