斎藤隆投手~プロ野球OB、未知への挑戦【第56回】

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斎藤隆投手~プロ野球OB、未知への挑戦【第56回】

2016年のプロ野球は既にキャンプが始まり、各チームとも開幕に向けての準備が着々と進められています。今年入団した新人選手達は希望に満ちあふれた毎日を送っているはずですが、一方で昨シーズンでユニフォームを脱がざるを得なかった選手もかなりの数にのぼります。功労者として引退試合までしてもらって拍手で送り出された選手がいる一方で、まだ20代であるにも拘らず戦力外通告を受け、独立リーグや実業団チームに移籍して野球を続ける選手、その道も断たれ野球とは無縁の世界で再出発を諮る元選手etc、厳しい現実も垣間見られます。

そうした中で、今回は日本からアメリカへ渡り、再び日本に戻り、昨シーズンをもって24年間のプロ野球生活を終えられた後、自らの意志で、これまでのOB選手達とはちょっと違った道を選択されたひとりの選手を取りあげてみたいと思います。その選手の名は、前東北楽天ゴールデンイーグルスの斎藤隆投手です。

斎藤隆投手は1970年(昭和45年)2月生まれの46歳、仙台市出身で、東北高校・東北福祉大学を経て、1991年秋のドラフトで横浜大洋ホエールズから1位指名を受けて入団されています。即戦力と期待されていましたが、1年目は初登板を果たすも大きな戦力とはなれず、2年目以降先発ローテーションに定着し規定投球回数もクリアできる投手に育っていかれました。3年目の1994年にはオールスター戦に初出場、5年目の1996年には初の二桁勝利を挙げると共に最多奪三振のタイトルも獲得される等、一流投手への階段を一歩一歩上っていかれました。

1997年には右ヒジの遊離軟骨除去手術の影響で丸々1年間を棒に振る経験もなされましたが、翌98年に復活し13勝5敗1セーブの好成績で球団の38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献されています。翌99年も自己最多の14勝(3敗)を記録するなど、後から振り返るとこの頃が先発投手として最も大きな輝きを放っておられた時期であったように思われます。

その後ご自身が少し調子を落とされたこと、チームの大黒柱であった抑えの大エース佐々木主浩投手がアメリカへ移籍されたこともあり、2001年に就任された森監督が斎藤投手の抑えへの転向を決断されます。この決断が成功し、2001年斎藤投手は7勝1敗27セーブ、防御率1.67の好成績を挙げられましたが、この時の経験が後のメジャーでの生活に活きたと本人が述懐しておられます。翌年も抑えとして活躍し、この時点でメジャーリーグへの移籍を模索されたようですが、球団からの3年契約の提示もあり、この時は残留を決意されています。

そして新たに指揮をとられることとなった山下大輔新監督の意向もあり、再び先発投手に配置替えとなりますが、結局3年間で6勝・2勝・3勝の成績しか挙げられず、この時点で「一度でいいからメジャーで投げたい」という思いから家族を説得し、球団を自由契約となってメジャーに挑まれることになりました。この時点で35歳、リスクをかけた大きな挑戦だったと思われます。

しかし年令の問題や日本での直近の成績不振もあって斎藤投手に興味を示す球団はなかなか現れず、アメリカで獲得した最初の契約はロサンゼルス・ドジャースとのマイナー契約でした。アメリカの気候風土やアメリカの野球が斎藤投手に合っていたということもあるのかもしれませんし、たまたま発生した故障者の後釜に起用されるチャンスを着実にモノにされた結果、メジャー挑戦1年目のシーズンの開幕から1ヶ月半後の5月半ばにはメジャー初セーブを挙げられました。

以降もチャンスをしっかりモノにし、1年目に24セーブ、2年目はリーグ3位の39セーブを挙げ、オールスターゲームにも選出される等、メジャーリーガーとしての不動の地位を確固たるものとされています。

ドジャースに3年、以降レッドソックス・ブレーブス・ブルワーズ・ダイヤモンドバックスに各1年ずつ在籍され、この7年間のメジャー在籍時に5度ポストシーズン出場を果たし、通算338試合に出場して21勝15敗84セーブ、防御率2.34、400奪三振の成績を記録される等、大きな輝きを放たれた7年間であったと思われます。

そして2013年から最後の球団となった東北楽天ゴールデンイーグルスに戻ってこられた訳ですが、この最初の年、大エース田中将大投手の活躍もあり楽天は球団創設以来初めての優勝を成し遂げます。斎藤投手も30試合に登板し、それなりの貢献をされているのですが、戦力としての貢献もさることながら、チームの精神的な支えとして、特に投手陣のブルペンのリーダーとして果たされた役割は実に大きなものがあったようです。メジャーで経験したこと、長いプロ野球人生で積み重ねてきたノウハウを後輩たちに伝える労力を惜しまない人柄、人間性、度量の大きさがチームをひとつにまとめる大きな力となっていたようです。

昨年10月4日、本拠地でのソフトバンク戦で斎藤投手は9回表バッター1人に最後の登板をし、試合後には引退セレモニーも行なわれましたが、その時の様子をビデオで見ると、この選手がこの地でどれほど愛されていたかがよくわかります。2011年の東日本大震災で傷ついた地に、地元仙台出身のメジャーリーガーが戻ってきてくれ、チームの精神的支柱として優勝も掴みとってくれた、それは斎藤投手ご自身にとっても何物にも換え難いご経験だったでしょうが、ファンにとっては言葉では表現できない喜びであったのだと思いますし、そういった斎藤投手に対する敬意があのセレモニーに表われていたのだと思われます。

そして引退後、その後の去就が注目されていましたが、斎藤投手が選んだのは大リーグのサンディエゴ・パドレスのフロント入りというものでした。功成り名を遂げた選手の引退後はコーチや評論家という選択肢が多い中、自らの意志でパドレスの球団幹部に「可能であれば球団の中のことを勉強してみたい」という思いを伝え、実現に至ったもののようです。肩書はフロントのインターンという位置づけで、ドラフト、統計学、育成、トレード等々、色々な面からフロント業務を経験し勉強されるようです。

サッカーの世界では選手出身者で球団運営の実務や経営そのものに携わる方は結構おられますが、日本のプロ野球ではこれまであまり聞いたことがありませんでした。斎藤さんほどの選手経験者がフロント業務をしっかり身につけていただくことは、近い将来日本のプロ野球の運営にも何らかの新しい風を吹き込んでいただくことになるのかもしれません。

「雲上在天」、これは斎藤さんが座右の銘としておられる言葉です。どんなに曇っていても雲の上には天があり、更にその上では必ず神様が見ていてくれる、そんな意味合いで座右の銘としておられるようです。この言葉は、現役選手としての24年間は決して順風ばかりではなく、苦しいことの連続を乗り越えて来られる中での斎藤さんの心の支えとなっておられた気がしますし、この方は自分の頭で考え、自分を自分でマネジメントできる力を備えた方であることが伝わってきます。

今年になって1月28日には侍ジャパントップチームが3月に行なうチャイニーズ・タイペイとの2試合の強化試合の投手コーチに就任されるという発表もなされました。これも斎藤さんが永年に渡ってこれまで積み重ねてこられた様々なご経験をまわりに還元して欲しい、そうした声の表われのような気がいたします。

これからエンタテイメントとしてのプロ野球に新しい風を吹かせる、そんな存在感あふれるご活躍を願ってやみません。24年間の現役生活本当にご苦労様でした。

(おわり)
2016/02/15

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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