西本幸雄氏~昭和の名将を偲ぶ【第36回】

名古屋 052-586-8829

静 岡 054-205-8180

東 京 03-3518-6363

大 阪 06-6364-1350

(受付時間:平日9:00~17:30)

西本幸雄氏~昭和の名将を偲ぶ【第36回】

2015年のプロ野球では新たに5人の方が新監督として采配を振るわれます。ソフトバンクの工藤監督、楽天の大久保監督、広島の緒方監督、ヤクルトの真中監督、そして代行から昇格された西武の田辺監督の5人です。これらの新監督がどんなチーム作りをし、どんな采配を振るわれるのか、大いに楽しみですが、プロ野球の監督というと私の記憶の中にはある一人の監督のイメージが今も強烈に残っています。今回は私の記憶に残るその監督のことを記してみたいと思います。その方は昭和の名将・西本幸雄氏です。

西本幸雄監督といってもご存知ない方もたくさんおられると思います。既に2011年11月に91歳でお亡くなりになっておられます。学徒出陣での応召を経験され、中国で終戦を迎え、復員後いくつかの社会人チームで選手・監督等を経験された後、1950年に30歳で2リーグ分裂後のパリーグ毎日オリオンズに入団。6年間の現役生活(後半はコーチも兼務)を終えた後、毎日オリオンズ(後に大毎オリオンズにチーム名改称・現千葉ロッテマリーンズ)での二軍監督を皮切りに、28年間にわたって三つのチームでコーチ・監督を勤めておられます。

28年のうちの20年は三つのチームの監督として、率いたチームのすべてで優勝を果たされていますが、ちなみに長い日本のプロ野球の歴史上、異なる三つのチームを優勝に導いた監督はたった3人しかおられません。西本氏もそのお一人(あとのお二人は三原脩氏と星野仙一氏)であり、生前既に野球殿堂入りも果たされていた、まさに伝説の世界に生きる方に他なりません。ただこの方を名将たらしめているのは、あとの二つのチームを優勝に導いた、その過程にあったように思います。

その二つのチームとは1963年から監督として11年間指揮をとられた阪急ブレーブスと1974年から8年間指揮された近鉄バファローズです。実は西本氏のこの両チームでの監督生活は連続しているのですが、同じパリーグで敵味方として戦うチーム同士で同じ監督が指揮をした極めて珍しいケースです。

何故こんなことが可能であったかというと、西本氏は1973年に阪急ブレーブスでリーグ優勝を逃して勇退されたのですが、すかさず近鉄側が当時の阪急の球団オーナーに近鉄の監督として迎えたいという要請をされ、阪急のオーナーも本人の意向に任せるとしてこれを承諾したことで実現したようです。

近鉄との契約の席に阪急のオーナーと近鉄社長が同席する異例の形だったようですが、これは西本氏の監督としての力量がいかに高く評価されていたかを示していると共に、いかに西本氏の腕をもってしても阪急にとってはすぐにライバルには成り得ないぐらい、当時の近鉄が弱小チームであったことも示していたような気がします。

実は1年間のコーチ経験後、1963年に監督に就任された当時の阪急ブレーブスも「灰色の時代」と揶揄されるぐらいの弱小チームでした。すなわち西本氏が率いた二つのチームは共に弱小チームで、選手を一から鍛え、育て、野球を教え、形が整ったところで采配を振るい、リーグを代表するような強豪常勝チームを作り上げられたのです。それを成し遂げるのにかかった時間が阪急ブレーブスでの11年、近鉄バファローズでの8年だったような気がします。

プロ野球の監督の仕事は大きく分けて二つあると言われています。ひとつは選手の育成も含めたチーム作り、もうひとつが試合の采配です。西本氏はこの両面で極めて優れた能力を持った方だったのだと思われますが、最初に指揮をとられた阪急の育成・チーム作りの時期、こんなエピソードが残されています。

それは「監督信任投票事件」と言われるものです。監督に就任された2年目に一度2位になったものの、あとはずっとBクラスという状態が続き、自らが先頭に立って汗水たらしても選手がなかなかついてこず、悶々とされていた時期があったようです。

就任から4年たった1966年の秋季キャンプの初日、一軍マネジャーを介して選手に自らの信任を問い掛ける投票を実施されます。すなわち「監督についていける者は○、ついていけない者は×」を記入するというものだったようです。

結果は○32、×11、白票4だったそうですが、×が1票でもあれば辞めると決められていた西本氏は「こんな結果ではチームは動かない。これは自分が辞めるしかない」と判断し、当時の小林米三オーナー(阪急東宝グループ創業者小林一三氏ご子息)に辞任の申し入れをされています。実は西本氏の、主力・若手を分け隔てなく鍛えるという指導方針がベテラン選手には不評だったようで、その結果が×11の結果だったのだと思われますが、鍛えられた若手の力量が上がれば当然出番も増え、チームは活性化されていきます。

この監督信任投票事件は、小林オーナーが「阪急の再建は西本以外にはない」と強い信頼を寄せられたことで解決し、この時西本氏は「自分が監督である間は、選手個々の意志に遠慮することなく、自分が思う方向へ選手を持っていくしかない」と腹を括られたようです。その結果翌1967年、阪急ブレーブスは球団創設32年目にして悲願のリーグ優勝を果たし、以降西本氏が1973年に勇退するまでに5度のリーグ優勝を遂げる黄金時代を築いておられます。

西本氏のチームを強くしたいとの思いはすさまじいものであったようで、これぞと見込んだ選手に対しては手も出る、足も出るという日常光景だったようです(今の時代ならこんな指導は大問題になるのでしょうが・・・・)。二つ目の指導チームであった近鉄でも在任8年で2度のリーグ優勝を成し遂げておられますが、まだ優勝に手の届かなかった就任5年後の1978年オフに監督辞任を表明されたことがあったようです。ただこの時は選手の側から「俺たちを見捨てないでくれ!」という引き止めの声が湧きあがり、辞任を撤回されるといった一幕もあったようです。

古いタイプの、鉄拳も辞さない厳しい指導者像が浮かび上がる西本氏ですが、一方でこんなに選手に慕われた監督も珍しかったようで、近鉄で監督勇退を表明された後の最後の試合となった1981年の近鉄vs阪急の最終戦では、両軍の選手総出で西本氏を送る引退の胴上げが行なわれました。そしてずっと後、2011年秋の西本氏の葬儀はかつての阪急・近鉄の教え子の選手たち、球界関係者、ファンが数百人も集まる盛大なものだったようですが、近鉄時代の教え子であり当時日本ハムの監督でもあった梨田昌孝氏は弔辞の中でこんなことを述べておられます。「ミスをすると殴られ蹴られもしましたが、その手先からは愛情と温もりが伝わってきました。ですから胴上げして喜んで嬉しがる西本さんの顔を見たい、その一心でプレーしてきました。」

西本氏は最初の大毎オリオンズも含めて8度のリーグ優勝を成し遂げておられますが、一度も日本シリーズの制覇は出来ませんでした。阪急時代の5度は川上監督率いるV9時代のジャイアンツにはね返され、近鉄時代の2度のうちの一度は、山際淳司氏のエッセイで有名となった「江夏の21球」の広島戦でした。それ故「悲運の名将」とも呼ばれていますが、西本氏ご本人は「三つのチームの素晴しい選手と巡り合い、8度も日本シリーズを戦えて本当に幸せだった。悲運の名将なんておこがましく、あえて言うなら幸運な凡将ですね」と笑いながら語っておられたようです。

今の時代には、もう西本氏のようなやり方は古いのかもしれません。しかし人間(選手)に愛情を注ぎ、自らの信念を曲げず貫き、自らの理想とする組織(チーム)を作りあげようとする姿勢は今に通ずるものも多いような気がします。チーム作りの手法は色々あるのでしょうが、根底に流れる愛情と信念、これも大切な要素に違いないことを教えられたような気がします。西本氏のご冥福をお祈りすると共に、日本のプロ野球界に名将と謳われる監督がこれからも何人も出て来られる事を祈りたいと思います。

(おわり)
2015/02/10

「福山義人のプロ野球に学ぶ組織論」一覧に戻る

筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

※福山義人氏への講演依頼はこちらから