松井秀喜選手~レジェンドと呼ばれる男の進む道【第35回】

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松井秀喜選手~レジェンドと呼ばれる男の進む道【第35回】

プロ野球は、その長い歴史の中で幾多の名選手を生みだしてきましたが、それら名選手の中でも特に傑出した選手、言ってみれば名選手中の名選手は残した実績やプレースタイル、振る舞いetcを通してファンの心の中に強い印象を残してくれます。今流の表現をするとレジェンド、まさに伝説の中に生き続けるような選手ですが、ここまで来るとそうそうは見当たらなくなります。

かつての長嶋茂雄選手、王貞治選手をレジェンドと呼ぶことに異論はないと思いますが、近年の選手では人によって受け止め方は様々に分かれるように思います。ただ今回取り上げる選手をレジェンドと呼ぶことに大きな異論は出ないのではないでしょうか。その選手の名は読売ジャイアンツ、ニューヨーク・ヤンキースで活躍された松井秀喜選手です。

松井選手は1974年6月生まれの40歳、石川県のご出身です。プロ野球に入る前、石川県の星稜高校の時代から超高校級選手として有名でしたが、高校時代には夏の甲子園で5打席連続の敬遠を受けたこと等が強く印象に残っています。1993年にドラフト1位で読売ジャイアンツに入団されましたが、長嶋監督との強い絆で結ばれた師弟関係のもと徹底的な指導を受け、日本球界を代表する長距離打者として君臨されました。

読売ジャイアンツ時代の成績については今さら言うまでもありませんが、松井選手の凄さは実績の素晴しさだけにあるのではなく、自らの打撃技術向上の為の努力・工夫を継続できる姿勢にあったのではないかと思われます。読売ジャイアンツでの最後の年となった2002年、惜しくも三冠王はとれませんでしたが、3回目の本塁打王(シーズン最多の50本)、同じく3回目となる打点王・最高出塁率のタイトルとリーグ優勝・日本シリーズ制覇を置き土産にFA権を行使しての米国メジャーリーグへの挑戦を表明され、ニューヨーク・ヤンキースへ3年契約で移籍されました。

この決断に至る裏では相当悩まれたようで、記者会見では「最後の最後まで悩み苦しかった。何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。決断した以上は命を懸ける」と決意を語られました。

2003年のメジャー初年度は、公式戦開幕試合で初打席・初安打・初打点を記録し、本拠地開幕戦ではメジャー初本塁打となる満塁本塁打を、数日後にはメジャー初のサヨナラ安打を放つなど極めて順調なスタートを切られました。その後一時打撃不振に陥った時期もありましたが、7月に行なわれるMLBオールスターゲームにファン投票のア・リーグ外野手部門3位で選出されて初出場も果たされました。

その後も日本人メジャーリーガー初となるサヨナラ本塁打を放つなど活躍され、1年目のシーズン全体としては得点圏打率がチーム最高の.335、打点はチーム2位の106打点と勝負強さを遺憾なく発揮されたものの、本塁打数を16本と大きく減らしたことで、ご本人としては満足のいく結果を残したとは到底言えない内容だったようです。

2003~2005年の最初の契約期間は年間162試合にすべて全試合出場されています。そして2006年以降については4年総額5200万ドル(当時のレートで約62億円)で延長の契約が結ばれました。そして2006年も順調なスタートを切り、4月中旬にはメジャーでのデビュー以来500試合連続出場を達成されたしばらく後、5月中旬に本拠地ヤンキー・スタジアムの試合で浅めのフライをスライディングキャッチでとろうとした際にグラブが芝生にひっかかり左手首を骨折、

読売ジャイアンツの新人時代の夏頃から足掛け14年続いていた連続試合出場記録が「1768」試合で途切れてしまいました。結局この年はシーズン終盤に再出場はしたものの出場試合は51試合にとどまっています。以降の2年間(2007年、2008年)は左太股、右膝、左膝等の故障に苦しめられ、日米通算2000本安打の達成といった節目はあったものの、故障者リスト入りの時期もあり、成績も本来の松井選手のものと比べるとかなり下がっておられます。

そして結果的にヤンキース最後の年となった2009年、指名打者専業として、故障者リストに1度も入らずシーズンを全うされました。ただ成績的には全盛期からはかなり落ち、本塁打はメジャー移籍後2番目の28本を放つも打率は移籍後最低の.274に終わってしまいました。

ただこのシーズンはポストシーズンに入って持ち前の勝負強さを発揮し、特にワールドシリーズでは指名打者制のない第3~5戦の代打出場でのホームランなど、13打数8安打3本塁打8打点、打率.615でヤンキースをワールドチャンピオンに導くと共に、ワールドシリーズのMVPにも選出されています。ただ最後のこの活躍はあったものの、「ヤンキースで現役を終えたい」との松井選手の望みは叶わず移籍されることになりました。

以降2010年ロサンゼルス・エンゼルス、2011年オークランド・アスレチックスと1年契約を結ばれましたが、調子の波が激しく満足のいく成績はあげられなかったようです。そして現役最後となった2012年はタンパベイ・レイズとシーズン開幕後にマイナー契約を結ばれましたが、メジャー昇格はしたものの調子は上がらず、7月後半の代打出場が結果的に現役最後の試合となりました。

思えばメジャー4年目の左手首骨折以降は、怪我と故障に悩み苦闘された現役生活だったように思われます。ただチームの勝利を第一義とし、その為の準備を怠らない姿勢はチームメートや監督からも高く評価されていますし、日本のプロ野球のトップレベルの選手たちからは打撃技術の高さが絶賛されています。

師でもある長嶋監督は松井選手について「多くの選手は最初は一生懸命に練習するが、少し結果が出るとすぐに手を緩めたがるものだが、松井君は結果に関係なく常に何年か先の自分の姿を想像して、長い目で物事を見つめながら練習できる数少ない選手ですね」と述べておられます。松井選手は試合を決める本塁打や感動的な本塁打を打った際にも派手なガッツポーズや万歳などのパフォーマンスを意識して封印しておられますが、その理由は「打たれた投手に失礼に当たるから」とのことです。

こうした姿勢がチームメートのみならずファンの共感も呼んでいるものと思われます。いずれ監督になって欲しいというファンの期待は高まっていますし、読売巨人軍は将来の候補のひとりである旨を明確に伝えておられるようです。

しかし現時点では、松井選手は自らに指導者の適性があるとは思っておられないようですし、今の段階では自信もないと語っておられます。監督という指導者への道を選択されるかどうかは松井選手自身の問題ではありますが、これだけ周りへの気配りも出来て自らを律することも出来る人が、組織をマネジメントされると一体どんな組織を作り、勝つ為にどんな手を打って来られるのか、それをぜひ見てみたいとも思います。そんな日がいつか来ないものか、ひそかに楽しみに待ち続けたいなと思います。

(おわり)
2015/01/23

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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