岩瀬仁紀選手~甦れ!抑えの名投手【第33回】

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岩瀬仁紀選手~甦れ!抑えの名投手【第33回】

プロ野球ファンの多くは贔屓チームの勝敗に一喜一憂し、その戦いぶりを見続けることはまさに生活の一部とも言えます。私もそんなファンの一人ですが、贔屓チームの選手ではないのだが、時々成績をチェックしてみたくなる気になる選手が何人かいます。今回は私にとってのそんな気になる選手の一人を取りあげてみたいと思います。その選手の名は中日ドラゴンズの岩瀬仁紀(イワセヒトキ)選手です。

岩瀬選手は1974年11月生まれの40歳、愛知県立西尾東高校から愛知大学・NTT東海を経て、1998年秋のドラフト2位(逆指名)で中日ドラゴンズに入団されています。出身地も愛知県西尾市であり、生まれてから40歳になる今日まで学校も職場もずっと愛知県という、まさに地元密着の選手です。

プロ入り後1999年の開幕戦(対広島カープ戦)で早速中継ぎとしてプロ初登板を飾っておられますが、この初登板は当時広島の中軸を打っていた前田智徳選手、江藤智選手、金本知憲選手に連打を浴びて失点を許し、1アウトも取れずにKOとホロ苦いものであったようです。

ただこれをバネに以降の登板で徐々に首脳陣の信頼を勝ち取り、ご自身の持ち味でもある制球力と鋭く曲がるスライダーを武器に左の中継ぎを任され、シーズンを終えると中継ぎながら10勝・防御率1.57という好成績で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得しておられます。ただ同期に新人で20勝をあげた読売ジャイアンツの上原浩治選手がおられた為、新人王のタイトルは逃されました。

新人の年から2014年までの16年間、長期の離脱もほとんどなく、ずっと投げ続けて通算899試合登板の記録を残されていますが、なんと公式記録に残る先発登板は1試合(2000年10月対広島戦、7回1失点で勝利投手)しかなく、あとはすべてリリーフ投手としての登板です。そしてこの16年間に打ち立てた記録は半端なものではなく、通算セーブ数が402、15年連続50試合以上登板、9年連続30セーブ以上(うち5回は40セーブ以上)を記録されると共に、シーズン46セーブの日本記録(藤川球児投手とタイ記録)も保持しておられます。

ちなみに通算セーブ数は、かつて大魔神と呼ばれた横浜ベイスターズ・シアトルマリナーズで活躍された佐々木圭浩投手の通算記録(382セーブ)を超えて最多記録となっています。

これだけ長期に渡って大黒柱としてチームを支え続け、ハードな場面での起用にも関わらず高いレベルの成績を継続的に維持し続けてこられているのは、元々の体が頑強であることは勿論でしょうが、精神面の切り替えも含めた自己管理能力が極めて高いことが伺われます。

岩瀬選手と言えば、私は2007年の日本シリーズ第5戦、勝てば中日ドラゴンズの優勝が決まるという一戦で、8回終了の時点で1対0のスコアながら完全試合を続けていた山井大介投手に代わって、9回に登板された姿が鮮明な記憶として残っています。

山井投手が右手中指のマメをつぶして出血していた等々といった事情もあったようですが、当時の落合博満監督、森繁和投手コーチは共に「完全試合目前で逆転負けして第6戦以降の敵地札幌ドームへ出向く流れになったら、この日本シリーズの優勝はない。何としてでもこの第5戦で勝って日本一を決めたい」と考えていたと後に述べておられます。当の山井投手は「マメは4回頃からつぶれており、自分で投げようと思っていたらそんなものは気にならなかった」と降板した理由はマメではなかったと述べておられます。

降板を申し出た理由として「自分に完全試合目前という投球をさせてくれているのは味方の力、特に守備のおかげだった。例えばヒット性のあたりを井端さんが難なくさばいてくれたのは偶然でも何でもなく、相手バッターの打球の傾向を研究し尽くして可能性の高い場所を守ってくれていたから。こうして皆が積み重ねてきた努力がファインプレーになって自分の投球を支えてくれていた。だからこそ、最後はシーズンを通して抑えとしてチームを支え続けてくれてきた岩瀬さんで終わるべきだと僕は思った」と語っておられます。

ナゴヤドームの9回表、日本シリーズではまだ誰も成し遂げたことのない山井投手の完全試合という快挙を期待する山井コールの中、岩瀬投手はマウンドに上がり、見事日本ハム打線を三者凡退に抑え、中日ドラゴンズに53年ぶりの日本一をもたらすと共に、日本プロ野球史上初となる変形ではあるものの完全試合を達成されました。

後にこの試合のことを岩瀬投手はこんな風に語っておられます。「1人でもランナーを出したら自分は批判を浴びるのだろうなと思っていた。普段の試合では1イニングをどうやって点を取られずに抑えるかを考えるが、あの試合はどうやってランナーを出さずに3人の打者を凡退させるかを考えていた。人生で初めての物凄いプレッシャーで、正直投げたくないなと思う自分もいた」。

この試合での落合監督の采配については、賛否両論が渦巻き大きな話題となりましたが、落合監督があの強いプレッシャーがかかる状況の中で、マウンドを託され1イニングを0点に抑えた岩瀬投手をとても高く評価されていたことが印象的でした。

そんな岩瀬投手も2012年の後半以降はリリーフを失敗する場面が目立ち始め、10年ぶりに一軍登録を抹消されたり、この年は5度目の最多セーブ王のタイトルは獲得されたものの、救援失敗数も8度を数える等、全盛期に比べるとパフォーマンスは落ちつつあるのかなと感じさせ始めています。

それから2013年、2014年と2年間が経過しましたが、特に2014年のシーズンは通算400セーブの大記録を達成はされたものの、8月に左肘の張りを訴えて一軍登録を抹消され、登板数50試合以上の連続記録が15年で途絶え、30セーブ以上達成の連続記録も9年で途切れてしまいました。防御率もプロ3年目の2001年以来の3点台に落ち、最盛時と比べると年俸も3割以上のダウン提示となる金額で2015年の来シーズンの契約を結ばれたようです。丹念な体のケアと魚・野菜を中心とした徹底した食生活管理等を通じて、40歳でのシーズンとなる2015年での復活を期しておられるのだと思います。

一部のスポーツメディアは岩瀬投手のことをオーラがない投手という言い方をされているようですが、私は全くそうは思いません。自分の役割に徹し、試合での投球を通じてチームの精神的な支えとなっている姿はまさに大黒柱そのものであり、周りに安心感を与えてくれているのだと思います。40歳という大ベテランの域に達した名投手がどうやって再び甦っていかれるのか、中日ドラゴンズ球団がこの名投手の復活・再起をどんな形でサポートしていかれるのか、贔屓チームの勝敗とは別に静かに見守りたいなと思っています。

功成り名を遂げた名選手の晩年をどう過ごさせてあげるのかが、組織がより強い組織となっていけるか弱体化の方向へ向かうのか、のひとつの分岐点のようにも思えます。そんなことにも思いを馳せて来シーズンを楽しみに待ちたいと思います。

(おわり)
2014/12/25

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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