松井稼頭央選手~役割に徹するプレーヤーの生き方【第28回】

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松井稼頭央選手~役割に徹するプレーヤーの生き方【第28回】

今年のプロ野球もセリーグは読売ジャイアンツの優勝が決まり、この原稿を書いている9/28現在パリーグもいよいよ大詰めを迎えています。話題はポストシーズンに移りつつありますが、シーズンの終了を待たずして、先日楽天ゴールデンイーグルスの星野監督が成績不振と病気の治療で2カ月間戦列を離れたことを理由に今シーズン限りでの辞任を表明されました。今回は2011年の星野監督就任と同時に楽天に入団し、若い選手中心のチームにおいて精神的支柱の役割を果たしてきた一人の選手を取り上げてみたいと思います。その選手の名は松井稼頭央選手です。

松井選手は本名松井和夫、1975年10月生まれの38歳、大阪府出身で、PL学園高校卒業後、1993年秋にドラフト3位で西武ライオンズに入団されています。ちなみに登録名の「稼頭央」ですが、「中央で先頭に立ち活躍する」という意味が込められているようです。入団1年目の1994年は一軍での出場はありませんでしたが、西武では2003年まで10年間主力選手として活躍され、その後FA権を行使してのメジャー挑戦を表明されアメリカに渡っておられます。アメリカでは7年間に3球団(ニューヨーク・メッツ、コロラド・ロッキーズ、ヒューストン・アストロズ)でプレーし、2011年からは再び日本に戻り、楽天ゴールデンイーグルスでプレーされています。

松井選手は抜群の身体能力とずばぬけた瞬発力、まわりも驚く強い肩の持ち主ですが、それがあの躍動感にあふれた溌剌としたプレースタイルにつながっています。全盛時には俊足・巧打・長打・強肩・好守の5拍子揃った最強の1番打者という言い方をされていましたが、ただ好守や長打は最初から備わっていたのではなく、血の滲むような練習の積み重ねで身につけられたもののようです。高校時代は投手をしておられましたが、プロには野手としてドラフト指名され、西武入団後に遊撃手に転向しておられます。

最初はフィールディングに難があったようで、入団時のコーチであった須藤豊氏について捕球、送球、守備の動きのすべてをゼロから学び、その後4度もゴールデングラブ賞を獲るまでに腕を上げておられます。打撃についても、地道なウェートトレーニングによる筋力アップで長打が打てるパワーを身につけておられます。1998年に年間9本塁打であったものが2000年には23本に増え、西武時代の最後の2年である2002年、2003年にはそれぞれ36本、33本のホームランを打つまでにパワーアップされていますが、ちなみにこの記録は当時のパリーグで外国人選手も含めてリーグ4位、日本人選手だけならリーグ2位の記録にあたります。

走ることに関しては元々高い能力を持っておられ、西武時代には盗塁王のタイトルも3度獲っておられますが、松井選手は盗塁については確固たる考えを持っておられます。即ち盗塁は数多く走ればいいというものではなく、あくまでも成功しなきゃダメというもので、事実盗塁失敗が極めて少ない選手でした。西武時代の2001年には26盗塁で成功率100%という記録が残っていますし、アメリカでも盗塁失敗は極めて少なかったという記録が残っています。

メジャー移籍後は、開幕戦でメジャー新人としての初打席で初球をホームランするという華々しいデビューを飾られますが、総じてメジャー在籍時代は怪我に苦しんでおられたという印象があります。毎年故障者リストに入って戦線離脱という時期があり、イチロー選手、松井秀喜選手についで3人目となる日米通算2000本安打を打たれた2009年(メジャー通算6年目)には、故障者リストに入った回数が通算9回に及ぶという程でした。怪我の影響もあってか、メジャー移籍後の松井選手は結構好調・不調の波があったように思われます。

しかし好調時に発揮されたパフォーマンスは素晴らしく、日本人メジャーリーガーとしての輝きを放っておられたように思われます。中でも2007年のロッキーズでは、シーズン当初は故障者リストに入っておられましたが、5月に松井選手が復帰した後は、1番ウィリー・タベラス選手、2番松井選手のコンビが機能し、大きく負け越していた状態からチームは上昇し、終盤の14勝1敗という驚異の快進撃もあってワイルドカードでのプレーオフ進出を果たします。

松井選手は中盤以降は2塁手として定着し、終盤はタベラス選手の離脱で1番・2塁に定着し、トップバッターとしてプレーオフ進出にも貢献されました。更にフィリーズとの地区シリーズでは第2戦で逆転満塁ホームランを打つなどの活躍をされ、チームの地区シリーズ、リーグチャンピオンシップ突破に貢献、チーム史上初のワールドシリーズ出場にトップバッターとしての役割を大いに発揮されました。ワールドシリーズでは惜しくもレッドソックスに敗れてしまいましたが、当時レッドソックスに在籍しておられた岡島投手、松坂投手との日本人対決は我々日本人を楽しませてくれました。

松井選手は、もし怪我がなかったらアメリカでも、もっと活躍することが出来ていたのかもしれません。西武時代は連続試合出場を続けておられましたので私はほとんど気づいていませんでしたが、実は怪我との闘いは西武時代、更にはもっと前のPL学園の時代から続いていたようです。ご本人は怪我や体調不良があっても試合を休まず、シーズン全試合に出場するという強い意志と拘りを持っておられたようで、その結果が8年連続の全試合出場という記録になって表われています。ギックリ腰の状態で打席に立ったこともあるようで、その時の東尾監督は「立っているだけでいいから」と言って打席に送り出してくれたそうです。又ある時は腰痛の状態で打席に立ってホームランを打ったものの、足を引きずりながらベースを一周まわったこともあったようです。

日本では、このような選手の気概に、監督・コーチも出場機会を与えるという形を通して心意気で応えてくれます。ただアメリカでは、この状態は故障者リスト入りということになるのでしょうから、ここに日米の選手に対する扱いの違い、選手や監督として現場に携わる方々の野球というビジネス・仕事に対する捉え方の違い、考え方の違いが如実に表われているような気がいたします。

楽天に移籍されてからの松井選手は、やはり怪我との戦いもあり、全盛時と比べると成績的には物足りなさがあることも事実かもしれません。しかし星野監督指揮下の4年間、若い選手の多いチームの精神的支柱として果たされた役割は大きかったように思われます。特に2012年、2013年はチームのキャプテンでもありましたが、昨年の優勝の一方の立て役者であったジョーンズ選手、マギー選手といった外国人選手とチームメート・首脳陣との間での橋渡し役といった面では、地味ながらチームの結束という面で果たされた役割は大きかったものと思われます。

松井選手の選手としてのキャリアが後半あるいは終盤に差し掛かっていることは間違いないのかもしれません。西武、メジャーリーグ、楽天とそれぞれのキャリアの中で違った役割を果たし、それ相当のパフォーマンスを発揮してこられた松井選手の経験は実に貴重なものと思われます。怪我を克服してこられた過程も含め、その貴重な経験を広く野球界に還元していただきたいものです。ただ一野球ファンとしては、少しでも長く、あの躍動感にあふれた溌剌としたプレーを見続けたいという思いも捨てられません。松井選手の更なるご活躍を皆さんとご一緒にお祈りしたいものです。

(おわり)
2014/10/10

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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