黒田博樹選手~耐雪梅花麗、求道の野球人(1)【第19回】

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黒田博樹選手~耐雪梅花麗、求道の野球人(1)【第19回】

2014年のプロ野球はまさに佳境に入ってきましたが、今年は日本のプロ野球の動向と同じぐらいメジャーリーグの動向も気になります。田中将大投手やダルビッシュ有投手の動向は勿論ですが、私はニューヨークヤンキースで黙黙と投げ続ける黒田博樹投手のことも結構気になっています。

広島カープの頃からいい投手であることは間違いないのですが、勝ち星と同じぐらい負けも結構多い投手だなという漠然とした印象を持っていました。ただどんなキャリアを積んで今日に至っておられるのかはよく知らない、というのが正直なところでした。

そこで今回は黒田投手のことを少し調べて書いてみることにしましたが、調べてみてビックリ、私は黒田投手というより黒田博樹という一人の青年の人間的魅力にとりつかれてしまいました。

黒田投手は1975年2月に大阪で生まれ、小学校1年から野球を始められ、大阪の名門上宮高校に進学されています。ただ驚いたことに在学中一度もエースナンバーの1番をつけたことはなかったようです。それぐらい当時の上宮高校の選手のレベルは高く、ただ走ってばかりの高校時代だったようです。

その後専修大学に進学されていますが、あれだけ苦しくご自身が挫折とまで思っていた上宮高校での経験が実は掛け替えのない財産になっていたことに気づかれます。そして環境が変わるというのは大きなチャンスにもなりえる、ということにも気づかされたと自らの著書の中で語っておられます。

黒田選手の物事に取り組む姿勢あるいは考え方は、初めから大きな目標や高い目標を掲げるのではなく、ひとつひとつ自分の目の前のナンバーワンを目指し、それが達成できれば枠を広げ、その枠の中で又ナンバーワンを目指すというスタイルのようです。言い換えると自らが設定した目の前の目標にこだわり、この目標の達成に全力を尽くすというスタイルだと思われますが、この考え方・スタイルはずっと後まで黒田選手の生き方そのものとして貫かれているように思われます。

黒田選手は1996年秋、当時はあったドラフト逆指名制度の2位で広島東洋カープに入団されています。1997年の入団当初は2軍スタートでしたが4月の終わり頃から1軍に上がり、先発ローテーションの一角で23試合に先発して6勝9敗、防御率4.40、ギリギリですが規定投球回数もクリアし、入団1年目としてはマアマアの成績を収めておられます。

しかし2年目は1勝4敗、3年目は5勝8敗と不本意な成績に終わっておられます。4年目はなんとか1年間ローテーションを守れる先発投手になりたいという目標を目の前に掲げ、その目標をクリアして9勝6敗、プロ入りして初めて勝ち越しを達成しておられます。

そしてプロ5年目に監督が山本浩二監督に交代されたことがひとつの転機となられたようです。前年の秋季キャンプで山本監督から「来年は期待しているからな」と声をかけられ、エースに近い扱いを受けるようになったことで「責任」を感じるようになり、監督ひいてはチームの期待に応えるような投球をしようという、チームに対して主体的な気持ちに変わっていったと自ら述べておられます。

そしてその年プロ入り初の二桁勝利(12勝8敗)を達成されていますが、この年の完投数13はリーグトップでもあったようです。この年から3年連続で二桁勝利、かつ2003年に初めて開幕投手に選ばれ、以降広島カープ在籍期間の2007年まで5年連続の開幕投手に選ばれています。

その間、あまり強くなかった広島カープで、しかも新球場に変わる前のあの狭い広島市民球場で、2005年には15勝12敗で最多勝のタイトルを、2006年には防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得されています。まさに広島カープの押しも押されもせぬエースとして君臨された訳です。

そしてシーズン途中にFA権を取得された2006年シーズンの広島市民球場の最終戦、黒田選手の広島時代の背番号「15」の赤いプレートを掲げたファンがライトスタンドを赤く埋め尽くし、巨大な横断幕が掲げられます。

「我々は共に闘ってきた 今までもこれからも…
未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら
君の涙になってやる CARPのエース黒田博樹」

FA権の行使に迷っておられた黒田選手は、癌の父親を広島に引きとっておられたという事情もあったのでしょうが、この広島ファンの姿勢にも引かれ、結局広島カープに残留される道を選ばれます。残留の会見では、自分が他球団のユニフォームを着て広島市民球場でカープファンとカープの選手を相手に目一杯のボールを投げる自信もなかったし、そういう自分の姿は想像できなかった、という趣旨のことを述べておられます。その翌年父親が亡くなられたこともあり、秋にFA権を行使してのメジャー移籍を表明されました。

(つづく)

筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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