村田兆治投手~人生先発完投、こだわりの野球人【第18回】

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村田兆治投手~人生先発完投、こだわりの野球人【第18回】

日本のプロ野球が誕生して今年で80年になるそうですが、80年もの歴史を積み重なると現在生きている日本人の大半の方々が、子供の頃から何らかの形で日常の中でプロ野球の存在を感じ取っておられたはずです。子供の頃のあこがれの選手、あるいは自分と同世代の選手が甲子園のヒーローからプロ野球選手として花開いていく姿を一ファンとして追いかけ続けた思い出、それらが幅広く国民の各層で共有されることが単なる娯楽から文化として昇華していくのだと思われますし、歴史を積み重なることの重みでもあるように思われます。

そういった意味で私自身にも同世代の選手として、その活躍が気になった選手がいます。今回はその選手について書かせていただきます。その選手は元ロッテオリオンズのエース・村田兆治投手です。

村田選手は1949年(昭和24年)生まれの団塊世代ですが、広島県の福山電波工業高校を卒業後、ドラフト1位で当時の東京オリオンズ(後のロッテオリオンズ、現千葉ロッテマリーンズ)に入団されています。後のイメージからは想像もつきませんが、入団当初はドラフト1位の契約金を手にしてパチンコ、麻雀に明け暮れるような生活をされていたようで、当然のように成績はあまり振るわなかったようです。

ある日、徹夜麻雀から朝帰りで独身寮に帰ってきたところで、当時球界を代表する大投手の一人でもあった小山正明選手が日課である朝のロードワークに出られるところと鉢合わせをしたそうです。これだけの大投手がはるかに厳しい練習を自らに課している姿に触れ、しかも「お前ほどの才能がありながらそれを無駄にするのは淋しくないか」と諭されたことで、それ以降真剣に練習に取り組まれるようになったとのことです。

入団2年目の1969年から頭角を現わし、その年6勝、1971年には後にロッテオリオンズの監督も勤められた金田正一氏のアドバイスを元に投球フォームを大幅に改造され、村田投手の代名詞ともなった「マサカリ投法」を完成されました。その頃から先発ローテーションの一角を担うようになり、1976年に伝家の宝刀とも謳われたフォークボールを習得されたことによって、名実共にチ―ムの大黒柱としての活躍をされるようになります。その前後あたりから、最優秀防御率、最多奪三振、最多勝等々、投手部門のタイトルを何度も獲得される等、1970年代から1980年代のパリーグを代表する投手のお一人として君臨されました。

しかし好事魔多し。1982年に肘を故障され、この年は6試合に登板しただけで4勝1敗。翌1983年も症状は良くならず、ついに手術を決断されます。米国の故フランク・ジョーブ博士の執刀によるトミー・ジョン手術と呼ばれる、左腕の腱を右肘に移植する手術です。日本のプロ野球では長らく投手の肘にメスを入れることはタブーとされていましたので、当時の村田投手の決断は本当に重い決断だったと思われます。手術後2年近いリハビリ期間はあったものの、見事な復活ぶりは、日本のプロ野球選手でこの手術を受ける方が何人も後に続いたことを見ても、まさに先駆者であったのだと思われます。

手術後、村田投手は1984年のシーズン終盤に復帰、そして翌1985年は開幕から11連勝、最終的に17勝5敗(10完投)の成績でカムバック賞を受賞されました。中6日で毎週日曜日にのみ登板するローテーションから、いつの頃からかファンは村田投手を「サンデー兆治」と親しみと尊敬の念を込めて呼び始めました。そして1989年5月、まもなく40歳を迎えようという時期に通算200勝を達成されると共に、この年生涯3回目の最優秀防御率のタイトルも獲得されました。

村田投手の座右の銘は「人生先発完投」だそうです。村田投手にとって現役最後の年となった1990年、19回先発して10勝8敗、当時は40歳代での二桁勝利は歴代2人目だったそうです。ただ完投の回数が前年より大きく減少したこともあってか、この年をもって引退を表明されました。引退の理由に、先発完投という自らが持ち続けたこだわり、このこだわりをプレーで果たせなくなった、ということを挙げられました。自ら信ずることへの武骨なまでのこだわり、そしてそのこだわりを貫く為の節制と努力、まさに古き良き時代のいい意味での職人気質を貫き通された野球人生であったように思われます。

現在のように先発・中継ぎ・抑えがきっちり役割分担される中では、もう村田投手のような先発完投にこだわる投手は生まれにくくなっているのかもしれません。ビジネスの世界においても、こだわりを貫くことにこだわる村田投手のようなタイプの人は段々生きにくくなっているのかもしれません。でもこういうこだわりタイプの人にも居場所を与え、活躍の場を用意してくれる組織には、何か言葉ではうまく言い表わせない懐の深さのようなものを感じさせてくれます。そんな組織、あるいは会社が世の中に増えてきたら・・・、もう少し潤いのある世の中になるのではないでしょうか。

今年65歳になる村田兆治さんはライフワークとして全国の離島をまわって少年野球教室を開いておられますが、今も少年たちに140キロのスピードボールとはどんなものかを見せる為、毎日欠かさずトレーニングを続けておられるようです。益々のご健勝をお祈りしたいと思います。 

(おわり)
2014/05/23

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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