金本知憲選手~名選手の最晩年に思いを馳せる【第16回】

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金本知憲選手~名選手の最晩年に思いを馳せる【第16回】

長いプロ野球の歴史の中では幾多の名選手が輩出されています。抜群の成績といくつものタイトルの獲得で歴史に名を刻んでおられる選手もおられますが、一方では成績やタイトルだけの比較ならもっと優れた選手もおられるにも関わらず、人々の記憶の中に強烈な印象を刻みこんでくれた選手もいます。そうした記憶に残る選手の中で私自身が個人的にも書いてみたかった選手がいます。広島東洋カープ、阪神タイガースで活躍された金本知憲(トモアキ)選手です。

金本選手は連続試合フルイニング出場のような記録を残した選手だろう、という反論もあるでしょうが、打率・打点・本塁打の打撃3部門においては打点王を一度獲得されただけですから、私の分類では記憶に残る選手ということになります。

さて金本選手は1991年秋のドラフトにおいて4位で広島東洋カープに入団されています。最初の2年間はほとんど芽が出ませんでしたが、3年目の後半から頭角を表わしレギュラーに定着されました。4年目の1995年以降は常に中軸を打ちながらチームの柱として不動の地位を固められました。2000年には、3割30本30盗塁という、いわゆるトリプルスリーも達成(その時点でプロ野球史上7人目)されましたし、2001年には1002打席連続無併殺打の日本記録を樹立されています。中でも打者として1000打席以上もダブルプレーをとられなかったというのは大変な記録のように思われます。単に走るのが速かったというだけでなく、自分がアウトにならないよう懸命に走られた結果であり、そこからはチームプレーに徹する姿勢が浮かび上がってきます。

そんな広島時代の金本選手でしたが、2002年のシーズンオフにFA権の行使に悩まれます。本音はFA権を行使して広島との再契約を望まれていたのかなと思われますが、球団はFA権を行使しての残留を認めない方針を曲げなかった為、最終的にはFA権を行使して移籍の道を選ばれました。当時阪神タイガースの監督であった星野仙一氏の強烈なラブコールもあり阪神タイガースへの入団を決意されました。

阪神タイガースでの初年度であった2003年は開幕から3番に定着し、2番赤星選手の盗塁を手助けするバッティングをしながら主軸として活躍し、阪神タイガースの18年ぶりの優勝に多大な貢献をされています。2005年には4番打者としてチームの優勝に貢献しMVPにも選ばれています。

そしていつの頃からか、ファンは金本選手のことを親しみを込めて「兄貴」と呼び始めます。この呼称には打って欲しいところで打ってくれる「頼れる兄貴」という意味合いが込められていたことは間違いありません。ただこの兄貴はチームで一番打つ人であるにも関わらず一番練習する人でもあったようです。金本選手の甲子園での日課は、試合終了後にトレーニングルームでウェイトトレーニングをきっちりこなすことで、金本選手の入団当初、他の選手は試合終了後はシャワーを浴びると三々五々どこかへ出掛けていたようですが、一人黙々とトレーニングをする金本選手を見て、徐々に試合終了後にトレーニングルームに入る選手が増えていったようです。

入団2年目の2004年には試合中に左手首に死球を受け、軟骨損傷と診断され広島カープ時代から続けてきた連続試合フルイニング出場の記録がとぎれそうになる危機がありました。しかしその翌日、他の選手の軽いバットを借りて打席に立ち、右手だけでヒットを打ったという感動的なシーンもありました。こうした姿が「鉄人」とも呼ばれるようになった一因ですが、自らを厳しく律し、背負った責任を果たそうとするその姿勢が、ファンのみならずチーム内の選手にまで、精神的な支柱として、その存在をより大きくしたような気がいたします。

しかしそんな金本選手にも終焉が近づきます。2009年5月以降打率が2割台前半に落ち込み、翌2010年のオープン戦での試合前の練習中に味方選手と激突して右肩を痛め、ボールが満足に投げられない状態になっていました。そして4月17日の横浜戦で浅いレフトへのヒットをダッシュして捕球し、2塁ランナーをホームで刺すべく投げたボールが一塁方向へころがり、ランナーの生還を許してしまいました。私はたまたまこの試合を横浜球場のレフトスタンドで観ていましたが、まわりの観客がシーンと静まり返ったのを憶えています。しかし「金本ひっこめ」「金本代われ」といった罵声は少なくとも私のまわりからは聞こえませんでした。何か観てはいけないものを観てしまった、そんな感じであったように思います。

功なり名を遂げた選手の最晩年をどう扱ってあげるか、本当に難しい問題であるように思います。ビジネスの世界に例えてみると、かつて業績向上に多大な貢献をしてくれて現在のポストを獲得してくれた古参のエースが、マーケットの変化に的確に対応できず低迷に陥っているといったケースです。新しい若手に責任者を交代させることで局面の打開を図るのか、今一度のチャンスを与えるべきなのか、阪神タイガースの当時の監督であった真弓監督も悩まれたのかもしれません。結論から言うと、この時は金本選手が自らスタメンからはずれることを申し出られたようで、連続試合フルイニング出場の記録は1492試合で終止符を打つことになりました。

その後も金本選手は代打で試合には出続け、連続試合出場の記録は継続しました。この年は規定打席未到達だが全試合出場という変な記録が残っています。この変な記録の裏に使う側の苦悩も透けて見えるような気がいたします。

結局金本選手は2012年に引退されましたが、野球に取り組む真摯な姿勢とその存在感の大きさで人々の心に大きな何かを残してくれたように思います。低迷していた阪神タイガースが金本選手の加入によってチームの体質まで切り替えることができたことはまぎれもない事実ですし、その存在がチームにいい影響を及ぼしたということでは、このシリーズの第一回・第二回に取り上げた読売ジャイアンツの長嶋選手・王選手にも匹敵するものがあったようにも思えます。

ただ残念なことは金本選手の姿勢・存在感を引き継いでくれる選手が見当たらず、再びチームが低迷の淵をさ迷い始めていることです。一度身についた良き体質を伝統と言われるところまで昇華させることの難しさも教えてくれているような気がいたします。

いつの日か、指導者としての金本選手の姿を再び目にしたいものです。

(おわり)
2014/04/25

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筆者プロフィール

fukuyama福山義人氏 元 (株)CSKホールディングス社長
株式会社マネジメント・サポート 代表取締役 福山義人氏1949年生まれ。慶應義塾大学卒業後、現(株)SCSKに入社。創業オーナー大川功氏に師事し、新規顧客開拓担当、営業マネジャー、管理部門マネジャーを経て、2005年代表取締役社長に就任。退任後、(株)マネジメント・サポート設立。現在は、創業オーナーに仕えた経験と自らの社長経験をもとに、若手経営者へのサポート及び講演活動等に従事。

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